「人の上を歩くと、足がのめり込むんですよ、内臓の中に」
被爆者たちは、それぞれの体験を抱えながら戦後を生き抜いてきた。
平和記念資料館の第9代館長を務めた原田浩さんは、中沢さんと同じ当時6歳だったあの朝、親戚の家に疎開するために、広島駅のホームで7時30分発の列車を待っていた。しかし、その列車が一向に来ない。そして、8時15分を迎える。

元平和記念資料館館長 原田浩さん
「父はとっさに私の身体を守ってくれて、自分のお腹の中に入れて四つん這いになって、それで私は奇跡的に助かった」
しばらく気絶していたが、意識が戻り、父とがれきの下から這い出ると…
原田浩さん
「まさに静寂そのものといいましょうか。音は全く聞こえないし、市街地がすべてなくなってました。広島駅の駅舎だけが残ってました」

その様子が描かれた絵がある。原田さんの証言をもとに高校生たちが描いた被爆の姿。多くの人が水のある場所に殺到した。炎と熱風が迫る中、父に手を引かれ東の方向へ逃げ続けた。
原田浩さん
「死体か、死体になる前の最後の息をした人もいたが、そういう人たちが無数に転がってましたんで、足の踏み場がない。人の上を歩くとね、足がのめり込むんですよ、内臓の中に。皮膚が取れとるから、踏んだら足がずぶっと入るんです。抜いたら次の足で踏むしかない。今考えても、どうしてあんなことして生きたのか、懺悔の念というか、つらいところですね」
爆心地から1.2キロでは、その日のうちに50%の人が亡くなり、それより爆心に近いと死亡率は80%から100%。あふれた遺体は、次々と焼かれていった。