次々と出てくる「予告」の証言
「米軍予告で命拾い 宮城・富谷市の内ケ崎さん50年の証言」という記事です。
河北新報(1995年6月4日朝刊)より:「当時、旧制中学5年だった内ケ崎さんは、学徒動員で仙台市太白区長町の軍需工場で働いていた。

7月9日朝の出勤直後、上司から指示を受けた。『今晩、米軍が仙台を空襲するとの情報が入った。重要物品を防空ごうに運んで、帰宅して大事な家財を被災しない場所に移せ』(中略)7月10日午前零時5分。『デマであればいいのだが…』と思いながら防空ごうに避難していた内ケ崎さんの気持ちを吹き飛ばすように空襲が始まった」
1973年出版の記録誌「仙台空襲」(宝文堂)にも「予告」に関する証言がいくつも出てきます。

NHK放送部の神山孜さんは、やはりアメリカのラジオ放送を傍受しており、仙台空襲の日にちを知ったと明言しています。

神山孜さん(NHK放送部):
「私たちの中の三、四人はアメリカの短波情報を傍受しており、日本向け宣伝放送は7月9日、仙台におじゃましますから疎開するようにとすすめていた。(中略)その内容を口外しようものなら、憲兵に連行され重罰にされるのである」

一方、予告ビラに関する証言は河北新報(2014年8月13日朝刊)に掲載されています。