やっぱり自分としては最初の財政。いかにして青森県をつぶさないで、夕張という実例もありましたけども。絶対につぶさないとは言ったものの、県の資金繰りの中において、もうしのがないといけない。手分けしてみんなに言ったわけですけども。総論賛成、各論的には絶対許せないと、全部ですと言ってもなかなかそういかない訳で。
やっぱり一番最初ですから、あの就任した途端にもうどうしようって、でも大丈夫、大丈夫だと自分にも言い聞かせて、絶対にいろんな知恵とか創意工夫が出てくるし、絶対切り抜けるやりぬけると。いいチームと感じたのはそのときですね、次々とアイディアが出てくるし、給与カットとかいろんなこともありましたけども、その中においても、こういう部分はこうですから、こういう手当はとか出てくるわけです、現場からアイディアが。とんでもない危機になったときには本当に腹をわって団結できるっていうそういう県庁であり、また県民性だなっていうことを感じました。とりあえず当初の2年、3年はもうのたうち回って、本当にニコニコはしてましたけれども、のたうち回るような思いで仕事した。
その一方で0.28の経済の状況。経済を回さなきゃいけない。どういうふうに投資できるか、投入できるんだと、だから得意分野で徹底的に稼がなきゃいけない。体張って稼ぐ攻めの農林水産業っていうことですよ。であれば観光産業ってことですよ。そういうことです。やらざるを得なかった。回っている経済が小さい、元々は弱い上に、歳出9000億を7000億に落としていくっていうことは回る経済がやっぱり少なくなるわけですから、その経済を集めてこなきゃいけないでしょ、稼ぎにでなきゃいけないわけですよ。
それはやっぱりあの、今だからこそ、泣き言ですけど、本音ベースで言いますけど、どうするって。いや、やっぱ攻めまくる。やるやる、やろうよってことをやるって言ってくれた農林部を初めとして、商工もそうですけど、企業誘致だって。みんなでそういうふうにやればできるぜ青森県庁、力を合わせていこうよってね、チームワークっていうものがぐんぐんできてきて、編成できたチームができてきて、それぞれの部隊がもう本当に水を得た魚と言いませんけど、知事一緒に攻めにいきましょうよ、取れますよって取りにいきましょうって、どんどんどんどんメキメキとね、県庁そのものが雪が解けてワーッてなって。来た来た、一緒に行くかってね。それを実感できたのは私ですね。トップで苦しくって、一緒にやってきて。それはあの当時の職員たちも幹部たちも感じたと思います。当時の40代がもうそれぞれ部長級になったわけですけども、そういった方々は先ほど挨拶に行った際も、そういった過去の経験を絶対忘れずに、今後とも、もっといい青森にしてくれってそういう気持ちでさっき職員へのお別れの言葉とさせていただいたわけです
そういったですね、プレッシャーをはねのけて、その財政危機をですね、回避できたという、この全力で駆け抜けられたその根源にある知事のその源は?
基本的に悲観主義って結局何も生まないよなって。自分だけでもスマイルしてようと。いや、どんな苦しいときでもよくニコニコしてくださいましたと、古い職員の方々・幹部の方が、よくあそこでニコニコ頑張ってくれましたよとよく言われたんですけども。
母親が言うには、生まれたときから笑って生まれて変な子だと思ったってね。あんなに喋らないでにこにこした子が、こんなに喋る子になるなんて思わなかったって。はい、反省しています、喋りすぎで。母は91になりますけど、家では静かにしろと言われそうなので静かにします。
Q.百石の方に戻られてから、どういった生活をされる?














