家族からは引っ越しは自分でちゃんとやってくれという冷たい言葉を言われて。だから朝5時からこの本いらないなとか、ものすごい20年分の整理をしてて。どんどん整理していくと、10何年前のものがあったりとか、家族からその昔励まされた、娘からの手紙であったりとか、息子からの手紙があったりとか…。家内は全然励ましませんから、ドSキャラじゃないですけど。しっかりとせぇと、男はしっかりせぇと、厳しいですからね…。

百石の実家を整理整頓して、荷物どこにいれるかとかあるから、このぐらいのロットしかないんだから、ちゃんと考えてやってきてよねということでございますから。今日帰ってからも1人元気にね、整理をして。さすがに明後日くらいからは何人か来てくれるっていうことです。とにかくよく働いたねと、厳しい家内も言ってくれて、恐れ入った体力だと言われたんだけど。それでまた未だにこんなに元気なのって言われたけども、そういうことを言われました。

Q.東日本大震災の復興の際に、県民の絆を強く感じたとおっしゃられましたが、どういう場面で?

自分でも現地に行ったとき、すごく困窮して避難してへとへとで歩いている家族、おじいちゃん、おばあちゃんたち、1人暮らしの方々もたくさん避難所に来てて、そういう方々を、地域の方々が積極的にやってきてくれて応援して。自分ができることをすごくやってくれている。外で交通整理的なこともあるし、中でまかないとかもあるし、とにかくケアしてくれてる。本当にそれが非常に嬉しかったですよね。

それともう一つ、後で表彰させていただいたんですけども、地域の消防団とかもちろん警察の方々もそうですけども、プラス住民の方々でも、市川の方とか引きずってても避難させる、一緒に逃げる、そういう避難をさせてくれてたんですよ。そういった話等も伺い、直接見たのは白銀とかそういう避難所それぞれでですけども、これは絶対逃がさなきゃ逃げなきゃ駄目だっていうふうにみんな力を合わせたっていうので報告を次々受けたわけです。その姿を拝見させていただきました。もちろんプロの部隊、消防とかの部隊の方々も、編成していってくれたってこともありますけども、そういった姿。特に、次の日のその避難所で、まず真っ先に白銀の避難所での姿を見て、本当に青森県民の人たちって本当にすげえなって、こういう県民性なんだな、力合わせていくんだと。もちろん自分の町の百石も、町長やってましたから、当然そこは津波も常習の場所ですけども、そこでも支え合う形、姿を見させていただきますけども、最初に言った白銀の姿が一番今でも忘れられないです。青森県民の素晴らしさっていうのは、この危機的なときに絶対現れることを感じました。

Q.20年の中で一番困難だったことは?