高校2年時の衝撃の走りから4年でブダペスト代表入りに前進
「お待たせしました」
静岡国際レース後の鵜澤からはこんな言葉も発せられた。鵜澤がブレイクしたのは高校2年時の19年。インターハイで100m、200mの2冠を達成した。特に200mは追い風2.1mと、0.1mの違いで参考記録になったが20秒36のスピードを見せた。昨年の世界陸上オレゴンで100m7位入賞のサニブラウン・アブデル・ハキーム(24・東レ)が、15年に出した20秒34(-0.4)の高校記録に迫るタイム。中学時代は野球部だった16歳の快走は衝撃的だった。
「やっと高2に戻りましたね。まだ超えてはいません。体も当時とは完全に別ものですが、タイムだけ見たら戻ることができた」
高校3年の20年はコロナ禍でシーズン前半の試合が行われず、8月の宮城県内の大会でケガをしたため目立った記録を残せなかった。陸上競技とは別の道を選択することも考えていたため、「大学に進学するか悩んでいて、練習もほとんどしていなかった」という。
そして大学1年(21年)5月の関東インカレで大ケガをして、10月に300mで復帰するまで試合には出られなかった。2年時の昨シーズンは5月の関東インカレ優勝、6月の日本選手権4位、9月の日本インカレ優勝と、大学2年生としては好成績を残している。
それでも鵜澤は納得していない。昨年200mは自己記録を3回更新し、今年の静岡国際で優勝しても「自分の基準では今もまだ走れていません」と自身に厳しい。
大学2シーズンが終わってすぐに足底をケガしたこともあり、今年の2月まで走る練習ができなかった。タイミング的にも「走る以外にやることがたくさんあった」(谷川監督)。筋力トレーニングや、体の動かし方を主眼としたトレーニングにじっくり取り組んだ。
特に意識したのが上半身の使い方である。
「ケガが多くて使える部分が少なかった。肩の位置が悪くて、猫背になったりしています。懸垂とかも頑張って、背中とかを正しく丁寧に使えるようにしました」(鵜澤)
谷川監督によれば「肩甲骨と下腹部が連動する動きで、(サッカー日本代表、筑波大出身の)三笘薫たちもやっている。感覚的に合わない選手もいるが、アスリートが速く走ろうとしたら使うところ」だという。
日本人初の19秒台も期待してしまうが、鵜澤は「(19秒台の手応えは)全然ないです。もっとやれることをやってから」だと楽観論に釘を刺した。
谷川監督は「左脚がしっかり使えるようにならないと上半身が空振りしてしまいます。背中と下腹部の連動ともほぼ同じことになりますが、その部分を繰り返しやりながら体力的なトレーニングをやっていければ」と今後の方針を話した。
Road to Budapest 23(標準記録突破者と世界ランキング上位者を1国3人カウントした世界陸連作成のリスト)の順位も、静岡国際に続き木南記念(5月7日)にも20秒44(+0.6)で優勝したことで、日本人トップの28位に浮上した。
「静岡国際では予選(20秒38・+1.1=自己新)と決勝、2本揃えられたのは収穫です。次は世界陸上の標準記録を切るくらいのつもりで」と、タイムも狙っている。その一方で「(日本選手権などで)勝ち続ければ(Road to Budapest 23の順位で)代表も可能」と冷静に考えている部分もある。
どちらの結果になっても日本選手権が、鵜澤の世界陸上代表入りに大きな意味を持つ。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)