スガモプリズン最後の処刑で命を絶たれた山形県出身の幕田稔大尉。中学の教員だった幕田の父は召集に応じて戦地に赴いたあと、終戦から2年半が経っても消息がわからなかった。1948年1月末、横浜で行われている幕田大尉の戦犯裁判は審理が進み、幕田自身の被告人質問が始まった。米兵1人を「命令により斬った」と堂々と認めている幕田には厳刑が予想され、担当弁護士は近づく判決を前に駆け込みで嘆願書を用意しようと奔走していた。そのような状況で幕田家に届いた知らせはー。

司令から命令「お前が初めに斬れ」

横浜裁判で判決を宣告される幕田稔大尉(米国立公文書館所蔵)

沖縄県の石垣島で終戦の年、撃墜した米軍機から脱出した搭乗員3人を捕らえて殺害した石垣島事件。米軍が裁く横浜軍事法廷で1947年11月に始まった裁判は、1948年に入って急ピッチで審理が進められ、幕田稔大尉は1月27日から5日間にわたって証人台に立った。27日は書面の確認だけで終わり、本格的な被告人質問は翌28日から4日間行われた。

<石垣島事件の公判概要(外交資料館所蔵) 1948年1月28日(水)>
(検事の反対尋問に対する幕田の答弁要旨)
幕田:自分は前に斬首の経験はある。しかし自分が本事件にて選ばれた理由は分からぬ。自分は志願したのではない。司令との問答内容は私が「司令、参りました」という意味のことを言うと司令は「幕田大尉、来たか」と言う意味のことを言われたので、「はい」と言うと司令は「今晩、処刑があるからお前が初めに斬れ」と言う意味のことを言われたので、自分は「はい」と命令を承知した。


石垣島事件の裁判の焦点は、米軍が立証しようとする「合同謀議」で、命令ではなく、それぞれが自発的に殺害をしたかどうかというところだった。幕田は堂々とした態度で、石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐から命令された状況を答えた。また、別の質問に対しては「自分は斬首する時、復讐心は持たなかった。命令により斬ったのだ」とも明確に答えている。