石垣島の震洋隊 到着果たせず海没した隊も
「日本特攻艇戦史 震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴」(木俣滋郎著 1998年光人社)によれば、石垣島には、震洋隊五つが派遣された。そのうち一つは海に沈んだ。1945年3月23日、第三十九震洋隊を乗せた日本郵船の道了丸(どうりょうまる・2274総トン)は、石垣島へ向かう途中、奄美大島の北西120カイリ(約222キロ)で、米潜水艦から発射された魚雷が命中して沈没した。隊員たちは夕食を終えて上甲板の居室で雑談していたところで、129名が戦死した。
幕田大尉が隊長を務めた第二十三震洋隊は、同じ船便だった第十九震洋隊と一緒に、一番早く石垣島に到着した。カタ六一四船団という、商船十五隻、護衛艦七隻という大所帯で、新鋭の海防艦四十四号が護衛についた。カタ船団とは佐世保から鹿児島を経て台湾の高雄に向かうものの頭文字だという。
第二十三震洋隊が乗船したのは、東洋開運の江戸川丸(1972トン)。長崎県の佐世保を1944年11月26日出発、鹿児島を経由して11月30日に沖縄の那覇へ入港、石垣島へは12月11日に到着した。幕田の軍歴には12月10日に石垣島警備隊着任の記録がある。攻撃を受けて海に沈む隊があったことを考えれば、この時点では無事に石垣島にたどり着くことができたのである。
















