米軍が裁いた横浜軍事法廷で、日本への空襲は国際法違反だと指摘し「法戦」と称して裁判を戦った東海軍司令官、岡田資中将。すべての責任を背負って、一人だけが絞首刑となった岡田は、1949年9月15日、スガモプリズンの死刑囚の棟から連れ出された。ほかの死刑囚たちが「何無妙法蓮華経」を唱えて見送ったその後の様子を、最後まで寄り添った教誨師が残していた。死刑執行の直前、岡田中将は葡萄酒を断り、いつもと変わらぬ悠然とした態度で死に向き合っていたー。

戦犯裁判を「法戦」と名づけ

東海軍司令官 岡田資(たすく)中将(1937年時 当時は大佐)

日本を空襲した米軍機の中には、日本軍による対空砲撃で撃ち落とされるなどして、墜落した機も多くあった。搭乗員の多くは墜落時に死亡したが、生き残った者たちは捕らえられ、捕虜収容所に入れられた。情報を有すると判断された将校は東京に送られることもあったが、1945年の春ごろからは、捕虜収容所のある場所で殺害されていた。岡田資が司令官を務めていた東海軍では、6月から7月にかけて計38人が処刑されている。岡田は、「無差別爆撃は国際法違反であり、斬ったのは空襲への報復ではなく処罰だった」と主張した。

スガモプリズンの教誨師だった田嶋隆純は、岡田中将について1953年に出版された自著「わがいのち果てる日に」(講談社・2021年復刊)にこう記している。

<わがいのち果てる日に 田嶋隆純1953年>2021年復刊講談社エディトリアル
元陸軍中将岡田資氏は、単に巣鴨死刑囚棟での異彩ある存在だったばかりでなく、今次大戦の落とし子たるいわゆる戦犯者の中でも、これほどの人物は珍しかったに相違ない。東海軍司令官として敵飛行士処刑の責を一身に負った氏は、十九名の旧部下を率いて立った横浜第一号法廷を、軍人生活最後の死に場所と定め、自らこれを「法戦」と名づけていた。