「自民党に乗せられたことは否定しない」

総理に就任する際、自民党議員らと水面下でどのような動きがあったのかについて、改めてじっくり聞いたのは2010年1月。場所は大分市内の村山元総理の自宅だった。「事前には何も聞いていなかった」と、当時のことを振り返った。

「その時は『自民党とさきがけと社会党で組んで、政権を3党連立でつくろうやねぇか』というような話をしていたのではないかと思うね。僕は当時、党の委員長だから直接声はかからんわね。でも、そんな動きがあることは僕もうすうす知っとった。

こっちもあんまりちょっかい出してもよくないから、知らん顔して見とったんだけど、だんだん話が詰まっていくにつれて、総理を誰にするかという話になって、自民党が『この際社会党から出してほしい、村山委員長でいいやないか』と言うたんじゃないかと思うな。本当かわからんで。聞いてねぇからな」

1994年6月、政局は混乱していた。前年に自民党からの政権交代を果たした非自民の細川連立政権はわずか8か月で総辞職し、後を継いだ羽田政権は連立与党第1党だった社会党が離脱したことで少数与党となり頓挫する。その混乱の中で、自民党と社会党、それに新党さきがけの3党での連立政権構想が進んでいた。

まさか自分が総理になるとは思っていなかったが、社会党の仲間から何も聞いていないうちから自民党の議員たちが次々とやってきて、総理就任を要請してきた。しかも、最初にやってきたのは意外にもタカ派の議員たちだった。

「最初に来たのが石原慎太郎と中尾栄一。二人が僕の部屋に来て『総理をやってくれ』と言う。『とんでもねえ、あんた方から言われたから<ああ、そうですか>なんて言うわけにはいかん』。(二人は)『話だけ聞いてくれ』って言うけども、『聞く必要はない』と言って聞かなかった。

そうしたら今度はさきがけから話があった。『どうしても社会党からじゃないと困る』と言うので、『社会党の中から誰を出すか話をしてもいいけど、僕はだめですよ』と言った。それから自民党の河野(洋平)総裁と森(喜朗)幹事長が会いたいと言ってきたので、『いや、今、反自民の政権をどうつくるのかの相談をしてるのに、一方であんたらと会うと誤解されるから、道義に反するから良くない』と断った。

いろいろ動きがあった中で、僕は最後まで断り続けた。それでうちの党内は、右(右派)の若い連中が夜、僕の宿舎に来て『なぜ受けないんだ、せっかくの機会だからいいじゃないですか』と要請してくる。『そりゃあとんでもない』って言って断り続けたんだけどね。結局は話がないままに推移したわけだ」

政権に復帰したい自民党は、なりふり構わず村山総理擁立を進めて党内をまとめていった。ただ、当の本人は、自分が総理になるとは思っていなかった。首班指名選挙で決選投票になり、小沢一郎氏率いる連立与党側が擁立した海部俊樹氏(自民党を離党)を破る。

1994年6月30日 衆議院で決選投票を経て内閣総理大臣に指名された直後

腹をくくったのは、総理就任が決まった瞬間だったと話す。

「本会議で投票されて決まったら、しょうがないもんね、これ。『しょうがないなぁ』と腹を決めた」

同時に、自民党の政権復帰に加担したことも認識していた。 

「(自民党は)何とかして政権に復帰したいという願望が強かったと思うね。それもあって、政権に復帰するためには、どういう道があるかと考えたんじゃないかな。僕はそれに乗せられたと言えば、否定しないわ。否定しない」