戦後50年の節目にけじめをつける「村山談話」

在任中には阪神・淡路大震災や、地下鉄サリン事件の対応にあたるなど、多くの政治的課題と向き合った。その中で執念を燃やしたのが、戦後50年のけじめをつけることだった。

「もともと政権を担う決意をした時ね、この内閣の使命というのは、ちょうど戦後50年の節目に担当した内閣だから、戦後50年の節目にけじめをつける。内外に解決しなければならない問題で未解決の問題があれば、そういう問題の処理にもあたる。被爆者援護法とか、水俣病の問題とか、あるいは地方分権の問題のかたをつけて、対外的にはやっぱり、アジアの国との関係でものを考えた場合、まだ戦争の後始末がついていない面がある。

もう一つはやっぱり歴史の問題でね、認識の違いがある。そういうものがあるから。今みたいに不信が一掃できないからね。アジアに対して信頼関係をしっかり築いていく必要がある。そんなことをずっと考えてきて、政権を担うときに3党連立政権の中で申し合わせをしているわけですよ。戦後50年の戦争の反省をして、平和を志向する方針を国会決議であげるというようなことも決めていましたからね」

しかし、国会決議では日本の侵略行為や植民地支配を明示することをめぐり、自民党が割れた。可決はされたものの欠席者多数での決議となったことで、談話の作成を決意した。

「あのまま済んだんじゃ、これは意味がないから、内閣としての方針を出そうと。総理が決断したらできることだから、それをやろうということで取りかかったわけだね。それぞれの関係者に集まってもらって、議論してもらって、熟慮して談話の文案を作ったわけだ。村山個人の談話なら、それほどの重みがないからね。しかし、閣議にかけて満場一致で決めて出した談話だから、重みがありますよね」

このような過程を経て1995年8月15日、村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」が発表された。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」

1995年8月15日 戦後50年の「村山談話」を発表