自衛隊の「合憲」と日米安保を認めるも、社会党は衰退へ

総理に就任すると、所信表明演説でそれまでの社会党の方針を転換する。党の中で合憲か違憲かの議論があった自衛隊の存在を「合憲」と認めた。それは政権を担うことの責任からだったと明かしていた。

「最初に石原(信雄)官房副長官から話があった。『総理、これだけは、後が困ると思いますから』と。やっぱり総理は三権の長だから、それが自衛隊は違憲だと言うたんじゃ、これはつまらん(「だめだ」の意の大分弁)わね。『僕も考えているから、あまり心配せんでいいから』と言うたんだけどね。

国民全体が、この程度の歯止めがかかった自衛隊ならあってもいいじゃないかと、肯定している部分が80%くらいある。だからその範囲をしっかり守るということを前提にして、憲法9条は守る。自衛隊を認めるかわりに、海外に自衛隊が行くことについては許さない。集団的自衛権は違憲だから、それには足を踏み込まないと言うような枠をちゃんとはめた上で、自衛隊を認めることにしたわけじゃ」

また、社会党が反対していた日米安全保障条約についても、堅持することを表明した。

「安保条約があってアメリカの軍隊が日本にあるということは、瓶の蓋だな。上から抑えられているから、日本が独自で軍事大国になる道は塞がれているということで安心している面もある。もう一つは、あの廃墟の中から立ち上がるために、防衛費にあまり金を使わずに経済の再建に力を尽くしてきたことで今日の日本があるということからすればね、安保条約の功の面もあるわけ。

罪の面があるとすれば、講和条約を結んで独立国になっておるのに、アメリカの軍隊がこれだけ日本に駐留しているということについては、やっぱり重荷になっている面はあるわね。だから、安保条約には功罪がある。

外交というのはこれまでの経過があって約束事なんだから、政権が代わったからそれをすぐ破棄するなんてことは出来ない。だけども、一応受け入れた上で、機会あるごとに悪い点は改善していく努力をすることは必要なことだと特に最近思うんだけどね」

一方で、やや寂しげな表情で語ったのは、社会党が衰退した責任について質問した時だった。政策転換に対して1995年7月の参議院選挙では厳しい審判が下り、社会党は大敗する。総理退陣直後の1996年1月に社会民主党と姿を変えると、同年9月に結成された民主党に多くの議員が流れ、同年10月の衆議院選挙でも惨敗した。

「やっぱり政権を担うことになればね、その程度の幅を持った政党に成長していかないとね、政権なんか取れないということもあって、まあいい機会かもしれんということで、僕は認めることにしたんだ。

ただ残念なのはね、党大会なり党の機関でね、十分議論を尽くして、その上で結論を出して、その結論を僕が受けてやったというふうにすれば、まあ党も納得するし、大衆も納得するわけじゃ。ある意味ではね。ただ、それが出来なくてね、僕が総理大臣になったために変えたというような経過になっておるから、そこはもう残念でしょうがないけどね。

さきがけが分裂して、どうしようかと言いよるうちに、うちの中も割れてだね、右の連中は民主党に行った。そりゃあもう『バスに乗るのを乗り遅れるな』というぐらいの雰囲気だったからね。労働組合もみんな向こうに行ってしまうしな。だけどやっぱりなあ、それは悲壮だったね」