「検閲だから断る」テレビに無断出演で更迭も
新井将敬は1948年、大阪市に生まれる。北野高校から東大経済学部を経て新日本製鐵に入社するが、1年で退社し1973年、大蔵省に入省。酒田税務署長、銀行局課長補佐を歴任したのち、1981年には渡辺美智雄大蔵大臣の秘書官に抜擢され、政治の世界に足を踏み入れる。
のちに政治家を志した理由を、自著でこう記している。
「権力のためではない。信頼、友情、思いやりといった価値を実現するためだ」
1983年、中曽根派の新人として旧東京2区から初出馬するも落選。選挙ポスターに誹謗中傷の黒いシールを貼られる「黒シール事件」にも見舞われた。86年、再挑戦で初当選。92年には「東京佐川急便事件」で金丸信副総裁を激しく批判し、竹下登元総理に離党を迫るなど、「改革派の旗手」「平成の坂本龍馬」として脚光を浴び、テレビ討論でも人気を集めた。
筆者の記憶にも残る出来事がある。92年11月、筆者が「筑紫哲也ニュース23」のディレクターを務めていた頃のことだ。
自民党幹事長・綿貫民輔は、新井に「番組出演は事前に党へ届け出るように」と通告した。だが新井は応じず、翌日のニュース23に出演したのである。
「出演を届け出るよう言われたが、検閲だから断った」とスタジオで筑紫キャスターに語る姿は鮮烈だった。「改革派の急先鋒」としてメディアを積極的に使う一方、無断出演を理由に衆院外務委員会理事を更迭されたこともあった。
新井は当時、テレビについて次のように語っていた。
「政治の世界では、若手の力は圧倒的に弱い。だからこそ、国民に対して、私たちの意見をテレビを通して、直接聞いてもらう機会は重要だと思っている」
「テレビは話したことがそのまま伝わるので、危険な真剣勝負である半面、信頼感も持っている」














