◆データから見える藤中松雄像

国立国会図書館(東京都千代田区)

この個人記録によると、松雄の身長は、5フィート4インチ(約163センチ)、体重は116ポンド(約53キロ)。満年齢では26歳だが、当時は数え年なので(生まれた年が1歳で新年を迎えると1歳を加えていく)27歳と答えている。職業は炭鉱労働者だ。農業と兼業して近くの炭鉱に働きに行っていたが、その割合のほうが大きかったのだろう。健康状態は良好とある。所持金はなく、預けられた衣類は、ベルト、下着、シャツ、靴、靴下、ズボンの項目にチェックが入っている。身ひとつで、連れてこられたのが分かる。

◆入所から半年間 面会者は二人のみ

横浜軍事法廷での藤中松雄(1947年12月3日 米国立公文書館所蔵)

入所した1947年の面会の記録がある。証拠となる調書の確認なのか、福岡で取り調べの際にいた通訳も含め、通訳が何度か訪ねて来ている。親族で最初に面会に訪れたのは、入所から1か月半後の8月13日、東京にいた衆議院議員の伯父だった。次は11月20日で、実家の山口家(藤中松雄は藤中家へ婿入りしていた)から父が訪ねてきていた。この6日後、11月26日から横浜軍事法廷で松雄が被告となった石垣島事件の裁判が始まっている。

松雄の面会記録はこれで終わりだが、松雄と一緒に死刑になった石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐の記録を見ると、神奈川県にいた井上大佐の妻は、入所した後、1か月ごとに面会に訪れていた。ほかの親族の面会はなかったので、面会は月1回に制限されていたのだろう。松雄の親族の場合は、遠い九州から東京まで列車に揺られて来るわけで、そう頻繁に来ることはできない。結局、松雄の妻・ミツコの面会は死刑執行までに、1回しか叶わなかった。