◆執行までいつでも教誨師に会えるように

翌4月4日には、第8軍から4枚に渡って細かい指示が出された。処刑場にはごく限られた人しか、入ることを許されなかった。写真や映像の撮影は禁じられ、処刑を妨害されることのないよう厳重な警備が指示された。そして「シークレット」と伝えられていた死刑執行の時間を松雄ら7人に申渡すのは、4月5日の夜だと指示があった。また、申渡しの際には、できれば教誨師にも同席してもらい、そのあと執行までの間、いつでも教えを受けることができるようにと書かれていた。藤中松雄が死刑の申渡し式の時に、居並ぶ米軍将校の中に田嶋教誨師の姿を見つけたのは、この文書による指示を受けてのことだった。米軍将校たちは、申渡しを確認して文書にサインをした。
処刑人も指名され、24時間前には4台の絞首台が正常に作動するよう整えられて、ロープや頭巾など必要なものも揃えられた。処刑の立会人として米軍将校の名前が、候補も含めて7名書かれている。スガモプリズンに4月6日の23時半前から死刑が執行される7日0時30分にいるよう指示され、スガモプリズンの指揮官は、所内の宿泊施設に泊まるよう指示されていた。
◆用意周到に準備された「最後の処刑」

死刑執行を実務として担当する人たちのリストには、担当士官のほか、処刑人とアシスタント4人、記録者、チャプレン、軍医6人、通訳といった人たちの名前が並んでいる。この中に、田嶋教誨師の名前もあった。
遺体を搬出するために7つの棺と車が2台用意された。士官1人と9人が遺体の受け取りのために配置されている。執行に際しては過度の苦しみがないようにするという一文もあった。
いつもは執行が決まると、その前夜に死刑囚の棟から執行される人たちが連れ出されていたが、スガモプリズン最後の処刑となった石垣島事件7人の死刑執行は、用意周到に準備が指示された。このため、いつもより1日早い呼び出しになったのだろう。
4月6日付で第8軍のラボが制作した報告書があった。松雄はスガモプリズン入所日に指紋を採取されているが、処刑される7人の指紋が以前のものと一致したという内容だった。