“その時”に向けて覚悟を決め、日記を含めた身の回りの荷物を手紙とともに実家に送っていました。

「11月25日。結構長い手紙で…追伸で遺髪を入れておいたというような」
遺書として書かれた、手紙。
淺川さんの父で又之さんの兄・新三郎さんに宛てたもので、「自分の写真や日記をまとめて保存してほしい」という一文も書かれていました。

又之さんのおい・淺川利夫さん:「自分が生きた証っていうような、そんなようなことを書いてあったね」
日記に記した勇ましい言葉の陰で、言葉にすることが許されなかったいくつもの思いがにじみます。
又之さんの甥・淺川利夫さん:「生きたいっていう気持ちはあっただと思うけど。書いたものはね…書いたものはずっと残るでね」
時を同じくして、又之さんが最後に家に帰ってきた時のことを、当時4歳だった淺川さんは今も思い出します。
「台所があってそこに座って、白い手袋とサーベル下げて来た記憶がうっすらと。それが最後だと思うけどね。ばあちゃんが『また来いよ』って言って見送ったら、そのとき『そんなこと言ったって』って言って、後ろもふり向かないで行って、それが最後の別れっていうかになったんだけど。『ごうたれ戦争のために又(之)は死んじまった』と(祖母に)ずっと言い聞かされて」
※編注 ごうたれ=腹立たしいの意

最後の日記から、4か月余り。1945年4月6日、沖縄における日本軍の航空総攻撃の初日、又之さんは出撃しました。