1941年12月8日、開戦とともに軍から命じられたのが「気象報道管制」です。敵国に日本の気象情報を知られないように、天気予報は軍事機密とされ、突然、新聞から消えてしまったのです。

予報を発表していたのは、今の熊本市中央区京町にあった熊本測候所、熊本地方気象台の前身です。

測候所で働いていた山田貢さんです。RKK(熊本放送)の取材に応じた10年前の映像です。今回、ご遺族の了解を得て、改めてインタビューを紹介します。山田さんは戦争当時のことを話してくれていました。

熊本地方気象台元職員・山田貢さん(当時92歳)「天気予報は絶対外にもらしたらだめだった。戦時中は。家族にも言っていなかった」

天気図には「極秘」という文字が記されていました。

国民には知らされなかった天気予報。

観測や予報は日本軍のために休むことなく続けられていたのです。

熊本地方気象台元職員・山田貢さん(当時92歳)「兵隊さんが、朝と夕方、天気予報を聞きに来ていました。空襲があっても観測していました」

空襲の中でも続いた観測の記録が熊本地方気象台に残されていました。

1945年8月10日「空襲に依り焼夷弾落下す午前10時5分所長官舎離れより発火。各要素に影響ありと思はる」

各要素とは気温や湿度、風などの観測のこと。

観測への影響だけが記録されていましたが、そのときの状況は過酷でした。

山田貢さん(当時92歳)「防空壕に入った途端、バラバラになる焼夷弾の1つが、私のところに入ってきた。足は全部やけどしまして、顔と手も」

8月10日の空襲で、測候所では、2人の職員が命を落としたと記録されています。