親吾さんへ「ありがとう」嗚咽した輝子さん

輝子さんと西村記者 今年5月

通夜、葬儀の場では、輝子さんは気丈にふるまい、涙を見せることはなかった。通夜の振る舞いでも、「お父さんは私がお見舞いにいっても目を開けてくれんで、本当に意地悪やわ」といつものように冗談めかして愚痴をこぼしていた。

しかし、葬儀後の出棺の際、それまで抑え込んでいた感情があふれ出る。輝子さんは棺に花を供えながら、声を上げて泣いた。親吾さんの額、両頬、あご、唇を愛おしそうに触れて別れを惜しむ。棺の蓋が閉まろうとすると、もう一度、顔を近づけて制止し、ハンカチで声を押し殺して嗚咽した。大粒の涙が頬をつたった。

「ありがとう、またね」。それは輝子さんが日航機墜落事故から40年にわたって生き抜いてきた「戦友」にかけた最後の言葉だった。

取材を終えて

事故から丸40年の命日に先立つ今月5日、私は親吾さんの末の弟の友一さん(79)夫妻とともに御巣鷹の尾根に登った。長年にわたって親吾さんを献身的に支えてきた友一さんは、兄の思い出の遺品を3人の娘の墓標に供えて手を合わせた。「これで兄貴も喜んでいるよ」

兄の遺品を供えた友一さん 今月5日

私が田淵夫妻と出会った2003年、夫妻は事故後に遺族であることを隠すために引っ越しまでしていて、全ての取材を拒んでいた。だが、プライベートで慰霊登山のお伴をする私に次第に心を開くようになってくれ、最終的には過去が知られるのを覚悟で「筑紫哲也NEWS23」の放送を了承してくれた。

出会ってから22年間、夫妻とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。私が結婚の報告をした際には大層、喜んでくれ後日、手紙とお祝いのコーヒーカップセットを送ってくれた。「縁もゆかりもない若いあなたが毎年3回、それも3人分の花束をもって慰霊登山にきてくれることがどれほど嬉しかったことか。せめてもの親の真似事としてプレゼントさせてください」

雨の日も風の日も肌を刺すような暑い日も、夫妻と一緒に登った16年間の慰霊登山。親吾さんとの最後の登山では、その思い出の1つ1つが私の頭をかけめぐり、込み上げある涙を必死に抑えた。夫妻と御巣鷹の尾根を一歩一歩、踏みしめることで、私は「命」の重さを噛みしるようになった。

実の両親がすでに他界している私にとって、夫妻はかけがえのない「お父さん、お母さん」である。通夜に参列した私を輝子さんは喜んで迎え入れてくれ、その晩、私は親吾さんの柩の側で添い寝させてもらった。

私は記者になって22年間、「命」をテーマに取材を続けてきた。その覚悟が定まったのは、田淵夫妻との出会いがあったからである。

「よう頑張っとるなあ」。天国の親吾さんにそう言ってもらえるように、これからも「命」を紡いでいきたいと思っている。

※この記事は、TBS テレビと Yahoo!ニュースによる共同連携企画です