怒り狂う輝子さん 黙って抱きしめた親吾さん

事故後間もない頃の輝子さん

ほとんどお酒を飲めなかった輝子さんが事故後、アルコールに依存するようになっていく。これまでめったに声を荒げることがなかったが、朝から一日中、仏壇の前に座り込んでは「いつ帰ってくるのや」と怒りをぶつけ、ウイスキーを浴びるように飲んだ。日中でも突然、「今から子どもたちに会ってくる。ぎゃーっ」と叫んで家を出ることもあった。

親吾さんが夜眠りにつくと「なんで私が寝られんのに、あんただけ寝るんよ」と怒鳴って、寝ている親吾さんの顔にウイスキーを浴びせかけたこともあった。そんな輝子さんを、親吾さんは黙って抱きしめ、落ち着かせるしかなかった。

事故後間もない頃の親吾さん

周囲は輝子さんを病院の精神科で受診させるよう勧めたこともあったが、親吾さんは頑としてそれを受け付けなかった。

「輝子が暴れるのは事故のショックからであって、原因ははっきりしている。無理やり精神科に引っ張っていって受診させれば、それを一生恨みに思うやろ。これ以上、そういう心の傷を負わせてはあかんと思ったんや」

輝子さん自身には錯乱状態になっていたころの記憶はほとんどない。だが、このとき親吾さんが守ってくれたことだけははっきりと認識していた。夫の前で口に出すことはなかったが、筆者には感謝を打ち明けてくれたことがある。「私があまりにも暴れるから、まわりはみんなおびえていたわ。でもあのとき暴れる私を、しんちゃん(親吾さん)はかばってくれたんや」

死を否定し続けて25年 受け入れたきっかけ

輝子さん 2015年

輝子さんは3人の娘がいつか必ず帰ってくると信じていた。娘の死を否定することが、唯一の生きる支えだったのである。

しかし、事故から25年が経った2010年、輝子さんの身体に突然、帯状疱疹が出て救急車で運ばれ入院した。「救急車で運ばれるとき娘たちに『お母さん、いつまで待ってるんや。私たちが帰ってくるわけないやろ。ええかげんにせえ』ってどやしつけられたんや。あれは夢やない。確かにあの子たちが囁いたんや」

その出来事をきっかけに、25年間ずっとアルコールを手放せなかった輝子さんが一滴もお酒が飲めなくなってしまった。「それ以来、私はあの子たちをもう待たないって決めたの。それを破ったら、またあの子たちにどやしつけあられるから」

輝子さんには、娘が亡くなった事実を受け入れるのに25年の歳月が必要だった。