開催への雲行きがどんどん怪しくなっていく…
1993年(平成5年)3月の都議会代表質問で「景気低迷に加えて都の財政も悪化している中で、1000億円もかかるイベントを開くのはいかがなものか」と、計画見直しを求める声が相次ぎました。これに対し、当時の鈴木俊一都知事は「意義深いイベントであり、今後の社会情勢を見ながら適切に進める」などと開催への強い意欲をにじませます。

そのため計画自体は継続されましたが、当初1994年(平成6年)の開催を予定していた都市博は計画全体が大幅に見直され、開催時期が2年延期の1996年(平成8年)となり、都の財政悪化により予算も1000億円から830億円へと圧縮されました。
1994年10月には村山富市首相(当時)らも出席して起工式も行われましたが、不況の影響もありパビリオンの出展企業は12グループと、目標の半分程度に留まっていました。

震災・テロ・不況── 日本の試練の年
開催予定前年の1995年(平成7年)、日本は激動の渦中にありました。
阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件など未曽有の大災害と社会を揺るがすテロ事件に直面し、さらに追い打ちをかけるバブル景気の崩壊というタイミング。

ここから後に『失われた30年』とも言われる、日本経済が長期にわたり低成長・デフレ・停滞に苦しんだ期間に本格的に入っていきます。証券会社は上場会社25社中23社が大幅な経常赤字を発表し、「アメリカ・ニューヨークのシンボルを買った」とまで言われた三菱地所のロックフェラーセンター運営会社が事実上倒産しました。














