◆松雄が弁護人に託した上申書

国立公文書館で公開された資料

公文書館の準備が出来次第、1冊ずつ決定の通知がきている状況で、2025年5月時点であと1冊残っている。新たに公開された資料の中に、藤中松雄の上申書があった。1945年4月15日の事件当時、松雄は今村兵曹長が隊長を務める小隊、第二迫撃砲隊の下士官で、新兵の教育担当だった。日々の任務は、甲板士官を務める炭床兵曹長の命令に従う形で行われていた。

<藤中松雄の上申書>※現代風に一部書き換え
処刑当日も甲板士官、炭床兵曹長の命令を受け、飛行場近くの野原に士官室偽装用の草取りに行き、(本部に)昼食に帰った時、飛行士がパラシュートで三名降りたと聞いた。午後も同じ作業に行き、四時ごろ帰り、飛行士が本部に連れられて来た事を聞き、今村隊兵舎下の流水にシャツを洗濯に行った時、馬蹄形の所で訊問されているのを初めて見ました。

◆「現場に行け」と命令され

藤中松雄の上申書(国立公文書館所蔵)

<藤中松雄の上申書>
処刑のあった夜、9時から10時の間に寝る支度をしていると(隊員はほとんど寝ていた)当直伝令が「下士官兵、当直室前集合」の号令を聞き、私は当直将校か甲板士官の訓示か、明日の作業の割当て達示があると思い、今村隊長に行くのを報告すると、隊長は「行け」と命じられたので、私はそのままの服装で当直室前に行きました。(巡検後遅く、度々日課割当てがあった)当直室前に行って、処刑の事を初めて知りました。衛兵司令の前島中尉に命令されて、他の隊の兵隊と整列しトラックに乗り、現場に行きました。

私は兵舎を出る時、処刑の事など余り知らず、処刑の事を当直室前で聞いたが、何処で如何様な事があるのか全く知りませんでした。命令され「トラック」に私が乗る前、既に二十四、五名の兵隊が乗っていて、私達が二十名程あとから乗ったので、全部で三十四、五名位乗っていたと思います。