天才プログラマー岩田聡さんと世界への飛躍

野村
アニメと並行して、カードゲームも展開されましたね。

中山
はい、メディアファクトリー(当時はリクルートグループ)が手掛けました。私は2006年にリクルートに入社したんですけど、未だにその時の名残がありましたね。やはり「あの時エンタメで変なことをやっているやつがいたよな」と。

「人材のリクルート」というイメージが強いですが、2002~2003年ぐらいに1度ポケモンで大ブームが来た時にすごく儲かって、エンタメに振り切るべきかという議論があったぐらいです。

その裏ではリクルート自慢の営業力がありました。任天堂のライセンスマネジメントの会社を作ったりと色々やっていて、カードゲームがいわゆる1つの商流としてまとめ上げられました。

そして、ポケモンの成功を語る上で欠かせないのが海外展開です。1998年に英語版ゲームをリリースする際、中心となったのが当時ハル研究所の社長であり、後に任天堂の社長となる岩田聡さんです。

野村
あの岩田さんが関わっていたのですね。

中山
岩田さんはスーパープログラマーでした。当時、ゲームフリークは次期作『金・銀』の開発で手一杯で、英語版開発のリソースがありませんでした。そこで岩田さんは、日本語版の仕様書なしに、外部から解析して英語版を作り上げる「リバースエンジニアリング」という手法で開発を進めたのです。

野村
そんな作り方をしていたのですか!

中山
天才的な仕事ぶりです。そして、この英語版ポケモンがアメリカで大ヒットします。

さらに、1999年にアメリカで公開された劇場版アニメ第1作は、今なおアメリカにおける日本映画の興行収入トップを維持しています。『ゴジラ-1.0』や『鬼滅の刃』の劇場版すら及ばない記録です。

漫画もVIZ Media(小学館・集英社の米国法人)を通じて展開され、ポケモンブームはアメリカの若者文化に深く根付きました。