1996年のゲームボーイソフト発売から始まり、今や15兆円規模とも言われるポケモン経済圏。その成功の裏には、ゲームクリエイターの情熱、幾多の困難を乗り越えたアニメ化、コロナ禍におけるコンテンツ戦略がありました。ポケモン(ポケットモンスター)がいかにして世界的な現象となったのか。その歴史と成功の秘密を、キャラクターIP(知的財産)ビジネスに造詣の深いエンタメ社会学者の中山淳雄さんに聞きました。
<東京ビジネスハブ>
TBSラジオが制作する経済情報Podcast。注目すべきビジネストピックをナビゲーターの野村高文と、週替わりのプレゼンターが語り合います。今回は2025年5月11日の配信「世界一のキャラクター経済圏『ポケモン』の凄さに迫る!(中山淳雄)」を抜粋してお届けします。
リリース時は社員9人「ポケモン」はどのように生まれたのか?
野村:
テーマは「ポケモン」です。中山さんの新刊『キャラクター大国ニッポン』でも分析されていました。私が小学生の頃にリアルタイムで体験したポケモンが、今や15兆円規模になっていると伺い、その凄まじい成長の秘密をお聞きしたいです。
中山:
株式会社ポケモンは、特にここ3年ほどで驚異的な成長を遂げています。私が独自に積み上げた数字でも15兆円規模に達しており、これは他の多くのキャラクタービジネスを凌駕するものです。
野村:
まず、ポケモンの歴史を振り返っていただけますでしょうか。
中山:
ポケモンは1989年頃、現ゲームフリーク代表の田尻智さんが温めていた企画から始まります。当時、ゲームジャーナリストや編集者のような活動をされていた石原恒和さん(現・株式会社ポケモン社長)がその企画に可能性を見出し、任天堂に持ち込む流れとなりました。
野村:
1996年のリリースまで7年もの歳月がかかったのですね。
中山:
そうですね。面白いのは、ゲームフリークというベンチャー企業の良いアイデアを、任天堂がM&Aなどで吸収するのではなく、共同で育てていった点です。
任天堂のプロデューサーである宮本茂さん(現・任天堂株式会社代表取締役フェロー)もアイデアを出し、ゲームボーイの通信機能を使った「交換」というコンセプトが生まれました。
しかし、小さな会社だったゲームフリークは開発に行き詰まる時期もありました。そんな時、任天堂は『ヨッシーのたまご』という別の案件をゲームフリークに託し、育成する期間を設けたほどです。
野村:
ポケモンを最初に作ったゲームフリークは、発売当時9人ほどの会社だったようですね。
中山:
はい。最初は2人から始まり、9人ほどで1996年に最初のシリーズをリリースし、ミリオンヒットを記録しました。ゲームとしては大成功です。