◆私は命ぜられる通り火葬しました

<椋本進平少尉の陳述書>
私は命ぜられる通り火葬をしました。
(火葬するまでの経路)
私は終戦直後、甲板士官を命ぜられ、私の隊を離れバンナ本部で勤務していた。
(遺体を火葬した)事件当日、私は船が入港しましたので、荷揚げ作業に従事していた。午後七時前後、荷揚げ作業が終了しましたので、石垣島警備隊本部へ帰ってきた。その時は遺体を発掘し、火葬するような事は聞かなかった。同日深夜、前島少尉が私の寝ている所を起こし、死体を掘り出してあるから、薪を持って行って火葬するよう、命令を伝達した。私は命ぜられる通り、薪をトラックに乗せ、現場へ行った。火葬場は、墓地より約十五メートル離れた所に準備が出来ていた。側には石油が用意してあった。私が行った時は火葬するだけであった。
火葬時には約五時間かかった。火葬するまで遺体を見つめていました。火葬する前に私の連れて来た兵隊は本部に帰し、前よりいた兵隊三、四人と火葬したのである。骨を指揮小隊へ持っていったのは、前よりいた兵隊が、火葬したら指揮小隊の兵舎へ安置するよう命令を受けていたもので、私が持っていかしたのではない。
椋本は陳述書に当時の命令系統について、「司令-副長―甲板士官」であったと書き添えている。
◆処刑現場の”観察者”

公文書館のファイルの中には、他にも椋本が自分の罪状について意見を述べている供述書があった。
椋本が石垣島事件に関して横浜軍事法廷で裁かれた罪状は、石垣島事件で殺害された米兵3人のうち、杭に縛られたロイド兵曹を椋本自身が銃剣で刺し、さらに部下を指揮して刺突させただけでなく、刺突の前にはロイド兵曹を暴行し、ほかの者にも虐待を許容し、さらに遺体を毀損した、というものだった。
しかし、椋本の供述書には「自分は銃剣で刺してもいないし、部下に命令もしていない」と書いてある。処刑を見にいかせただけで、自分は処刑の最初から最後までを「観察」していたというのだ。