日本は1945年8月、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。このポツダム宣言の中には「戦争犯罪人の処罰」が含まれていた。その4ヶ月前、石垣島では米軍機搭乗員3人が殺害されていた。捕虜虐待の罪で戦犯に問われることを恐れた石垣島警備隊の司令は、遺体を掘り起こして燃やし、海に流す隠蔽工作を指示したというー。

◆米軍上陸前に書類を燃やし隠蔽工作

死刑の宣告を受ける井上乙彦大佐(米国立公文書館所蔵)

森口豁著「最後の学徒兵―BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(講談社 1993年)には、石垣島事件で米兵を斬首した田口泰正少尉と同期で、事件当時第三〇六砲台指揮官として石垣島の南東部にいた松村久という人物の話が出てくる。松村によると、終戦後、石垣島警備隊に停戦命令が出されたのは8月17日で、松村が自分の部下に戦いが終わったことを告げると、激しい嗚咽と涙の中で、皇居の方角である東に向かって一礼したという。

そして、アメリカ軍が石垣島に上陸し、武装解除で武器や軍刀を取り上げられたのは10月の上旬だった。この前に井上乙彦司令の命令により隠蔽工作があったというのだ。米軍が石垣島へやってくるという連絡が入った時に、士官以上の者が急遽本部に集められた。事件について箝口令が敷かれ、書類の焼却などが大慌てのうちに行われたという。松村は副長の井上勝太郎が当直日誌を焼いていたのを記憶していた。