「散るさくら 残るさくらも 散るさくら」そして、終戦へ
大和が沈没した翌日に書かれた手紙の最後には、「散るさくら 残るさくらも 散るさくら」。「明日は自分の番」と当時、特攻隊員の間で詠まれた辞世の句です。このとき、都竹さんは初めてこの句を手紙に記したのです。
1945年5月15日の手紙(当時22)
「此度(こたび)の出撃こそ『その機』ではないかと心秘かに期してゐるのですが」
「散る櫻 残るさくらも 散る櫻」
1945年6月22日の手紙(当時22)
「力の限り身の限り、驕(おご)れる彼等の頭上に日本男児痛憤の一剣を加へて 散りなんとのみ 思ってゐます。」

と覚悟を綴る一方で…
1945年5月8日の手紙(当時22)
「私は再び還(かえ)らぬかも知れませぬ。⼜(また)還るかも知れませぬ。還り度(た)いのは当然であります。」
8月15日。
都竹さんが将校となってから1年11か月、戦争は終わりを迎えました。都竹さんは生き残ったのです。