誰も知らなかった「笑顔の写真」理由を探る

青年将校だった都竹さんが家族に宛てた手紙が残っています。そこには当時の出来事や心情が事細かに綴られていました。

1944年4月13日の手紙(当時22) 大和沈没の約1年前
「実は今度 宿願成って、『⼤和乗組』を拝命 いよいよ待望の第⼀線へ乗出すこととなりました。」「 艦は最新、最強、最⼤の堅艦」「只 身の限り 力の限り――と決して居ます。」

資料提供:沖田恭祐氏

都竹さんが大和の乗組員となったこの頃、すでに日本は厳しい戦局に追い込まれていました。

1944年12月6日の手紙(当時22)
「ニューギニア、マリアナ、内南洋、マラッカ、菲
(フィリピン)島と⼤東亜全域に転戦」「幾度か死地を脱し、数百名の戦友の陣歿(じんぼつ)を眼の当り⾒て参りましたが……本当に『よくぞ』としみじみ思います。」

その一方で…

1944年12月6日の手紙(当時22)
「艦隊でも最先任通信士として痛快極まるライフを送ってゐます。」

1945年3月、後輩の士官が中尉に昇進しました。その記念にと撮影したのがあの写真だったのです。

数日後、都竹さんは配置換えとなり、大和を退艦。

それから1か月後、大和は沖縄への特攻が命じられ、そして4月7日-。
沖縄へ向かう途中、アメリカ軍の攻撃を受け、大和は沈没しました。

1945年4月8日の手紙(当時22) 大和沈没の翌日
「帝国海軍 全力投入に決したるものの如
(ごと)く沖縄方面の死斗(しと)いよいよ凄烈。艦隊も特攻突入 遂に還(かえ)らず。」「皆が散って行きます」

この戦いで、写真に写る10人のうち、7人が特攻作戦に参加し、6人が命を落としました。