◆27歳で夫を失い一家を背負う

1950年4月7日、29歳の誕生日を三日後に控え、28歳で松雄が死刑執行された時、ミツコはまだ27歳。長男は8歳、次男・孝幸さんは3歳だった。葬儀は盛大に行われ写真も残っているが、3歳の孝幸さんは葬儀の最中に皆が前を向く中、一人だけカメラマンの方を振り返っている。よだれかけを着け、無邪気な様子だ。葬式の意味は理解できなかっただろう。
松雄は復員後、農作業をしながら近くにあった麻生鉱業吉隈炭坑に働きに出ていた。松雄が連れ去られたあと、ミツコは一家を背負って農作業に励んでいた。松雄は婿養子なので、ミツコは実の父母と暮らしていたわけだが、松雄の葬儀から1年半後、脳卒中で父が急逝する。孝幸さんによれば、男手を失った藤中家では、牛を飼って田んぼを耕していたという。
◆真っ黒になって残業をしていた母

さらに現金収入を得るために、ミツコは近くの豆炭工場にも働きに出ていた。豆炭工場は、粉状になった石炭をまるめて、小さな燃料にする工場だ。石炭の粉を扱うので、作業をすると粉が身体について真っ黒になった。孝幸さんによると、幼い二人の息子を育てるために、ミツコはよく残業をしていたという。暗くなってから家に帰ってくるミツコは黒く汚れていた。
ミツコは2008年11月に85歳で亡くなった。最初、私が藤中家へ取材に行ったときには、ミツコの写真は遺影に使われている晩年の写真しかなかった。孝幸さんにほかに写真はないか聞いてみたが、見たことがないとのことだった。それから数ヶ月して、孝幸さんの妻、洋子さんから電話をいただいた。ミツコの遺品の中から写真が入った封筒がみつかったという。押し入れの中を探してくださったのだ。封筒の中には4,50枚の写真が入っていた。

写真の束の中には、30代ぐらいだろうか、豆炭工場で働いていた時に同僚と一緒に写ったミツコの姿があった。孝幸さんが小学生のころ、参観日などでミツコが学校へ来ると、「きれいなお母さん」だと同級生たちからうらやましがられたという話をしていたのを思い出した。