米軍機搭乗員3人を殺害し、7人がBC級戦犯として死刑になった石垣島事件。7人のうちのひとり、1950年に死刑執行された藤中松雄一等兵曹には、妻と幼い息子二人がいた。28歳で命を絶たれた松雄は19歳の時に17歳のミツコと結婚。夫亡き後、ミツコは婚礼写真を誰にも見せずに封印していたー。
◆太平洋戦争の前年 19歳と17歳で結婚

藤中松雄一等兵曹は、福岡県嘉麻市の出身だ。二人が結婚したのは太平洋戦争が始まる前年、1940年10月28日だった。松雄の家もミツコの家も農家だったが、9人兄弟の四男だった松雄が19歳で藤中家に婿養子に入った。ミツコは二つ下の17歳だった。
松雄の生家は裕福な農家だったようだ。長兄が出征する際に撮影した家族写真では、松雄は学生服姿だが、洋装で腕組みしてポーズを取った写真もある。一方、ミツコは村で評判の美人だった。同じ村出身で松雄と同い年の坂本弘之さんは海軍入隊後、初期訓練の休憩時間に、松雄の口から美しい妻、ミツコの自慢話を聞いたという。
◆一緒に暮らしたのは3年足らず

結婚の翌年、1941年の9月に長男が生まれた。その3ヶ月後、松雄は12月1日に召集される。真珠湾攻撃の直前だ。年明け、佐世保海兵団に入隊した。結婚してから入隊するまでは1年2ヶ月しかない。
軍歴によると、敗戦後も任務についた経歴が残っているので、BC級戦犯として米軍に拘束されるまで夫婦が一緒に暮らしたのは、1年半ほどではないか。スガモプリズンに入所したのは、1947年7月2日だった。次男の孝幸さんは、その半年前の1月に生まれている。孝幸さんはミツコから「あなたをおぶってスガモプリズンまで面会に行った」という話を聞いたという。孝幸さん本人は、父の記憶はまったくない。