◆密告から発覚 さみだれ式に46人拘束

銃剣で刺突されて殺害されたロイド兵曹

石垣島事件はGHQへの”密告”で発覚し、調査が始まったのは1947年の年が明けてからだった。いちばん最初にスガモプリズンに入所したのは、石垣島警備隊のトップ、司令の井上乙彦大佐だ。入所の日付は1月20日。間をおいて二人の実行犯、一人目を斬首した幕田稔大尉が3月14日に入所。二人目を斬首した田口泰正少尉が3月19日と続く。また間が開いて6月末から7月初旬にかけて、副長の井上勝太郎大尉、3人目の刺突を指揮した榎本宗応中尉と実際に刺突した藤中松雄や成迫忠邦ら10人以上が収容される。さらに8月、9月に福岡、佐賀、熊本、大分、宮崎、鹿児島と九州出身者が多いが、東京、愛媛、高知からもかき集められるようにスガモプリズンに連行されている。前内原ら沖縄出身者は最後のほうの9月に入所。あわせて46人が起訴された。

◆事件当時17歳の少年兵

石垣島事件の法廷 中央の顔が半分写っているのが大城英吉二等水兵(米国立公文書館所蔵)

前内原と一緒に、沖縄からスガモプリズンに移送された大城英吉二等水兵の調書も、国立公文書館の石垣島事件のファイルの中にあった。

事件当時は17歳。1947年10月7日、スガモプリズンでの調べだ。

私が最初に国立公文書館に調査に行ったのは2020年秋で、その時点では原本をコピーしたものが公開されていた。被告人などの名前は黒塗りで、アルファベットがふってあった。大城英吉は、「AE」とふられていた。

◆日本兵立ち会いの実況見分調書

公開されていた黒塗りの文書(国立公文書館所蔵)

大城英吉はスガモプリズンで調書をとられた1ヶ月前の9月4日に、石垣島で処刑現場を案内し、翌日その調書が作られている。10月7日の調書では、9月4日に撮影された12枚の写真について説明を求められている。

前内原が書いた「『石垣島事件』の戦犯となって」という手記によれば、大城英吉は沖縄県八重山郡の鳩間島の出身で、前内原と一緒に田口小隊に入った。石垣島事件の前日、輸送船で運搬されてきた米を桟橋の沖合で荷下ろししていた時に、グラマン機の機銃掃射に遭い、同じ田口小隊の3人の仲間を失った。