太平洋戦争末期、墜落したグラマン機に搭乗していた米兵3人が日本兵によって処刑され、戦後46人がBC級戦犯に問われた石垣島事件。法務省から国立公文書館に移管された資料の中に、石垣島出身の二等水兵の調書があった。事件当時19歳。米軍の取調べに恐怖をおぼえ、調査官を喜ばせようと「米兵を突いた」と言ってしまったー。

◆裁判の中盤に米軍が二等水兵を聴取

事件現場近くには松があった

前回紹介した石垣市市史編集室「市民の戦時・戦後体験記録第二集」に「『石垣島事件』の戦犯となって」という手記を寄せた前内原武二等水兵が、横浜裁判中にとられた調書が国立公文書館にあった。

日付は1948年1月24日。石垣島事件で横浜裁判の法廷がひらかれたのは、前年の11月26日からなので、裁判は中盤だ。3月16日の判決に向けて、2月2日からは裁判の核心ともいえる司令・井上乙彦大佐の被告人質問が予定されていた。その直前の土曜日に東京でとられている。

◆調査官に突いたと言ったが実際は突いていない

国立公文書館(東京都千代田区)

この調書によると、前内原武が19歳で海軍に入隊したのは1945年4月2日。捕虜を殺害した石垣島事件が起きたのは4月15日なので、わずか2週間前だ。田口泰正少尉が率いる田口小隊で、塹壕と防空壕を掘る任務についていた。

すでに横浜裁判に証拠提出されている前内原の調書は1947年9月7日に沖縄で調べられた時のもので、この調書は「自発的に発言したものではない」という。留置場ではすべてのコーナーに機関銃を持った兵が配置されていた。調べの際に脅迫はされなかったが、常に撃たれて死ぬのではないかという恐怖にかられていたという。「調査官を喜ばせるために三番目の飛行士を銃剣で突いたと述べた、しかし実際には突いていない」と答えている。21歳かそこらの年齢で機関銃を目の前にして昼夜を過ごすのは、恐怖に震える体験であったのだろう。

◆入隊2週間で銃の訓練も受けず

前内原武二等水兵(米国立公文書館所蔵)

前内原は「3人目の飛行士の処刑には加わっていない」と明確に答えている。前内原は処刑される飛行士を取り囲んでいた群衆の中にいた。杭に縛られた飛行士・ロイド兵曹からは20メートルほど離れていたという。まだ入隊して2週間の前内原は、その時点で銃の扱い方も知らなかった。軍隊の基礎的な訓練は入隊して3週間後から始まったからだ。ロイド兵曹を多くの兵が銃剣で刺したのは、「刺突訓練」の体だったので、そもそも銃剣の扱いすら知らない前内原は訓練の対象外だったということだ。