◆戦争が如何に残酷なものであるか良く覚えていて

「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会1953年)には、妻宛のものと、親族に宛てた榎本の遺書二通が収められている。書いた時間が記されていて、妻宛のものは「四月六日午後三時五十五分」とあるので、もう一通の午後五時十五分に書いた「絶筆」という書き出しで始まる遺書がその後に書いたものなのだろう。榎本は婿養子なので、書き出しの父上様、母上様は、妻の両親ということになる。
<榎本宗応の遺書>「世紀の遺書」巣鴨遺書編纂会1953年より
絶筆
父上様、母上様、兄上、姉上、○○、○○、○○、その他皆々様、すずさんやみやさん、永らくお世話になりました。翌朝0時三十分二河白道(にがびゃくどう)とやらへ参ります。○○さん、どうぞ御体をお大切に御暮し下さいませ。母や祖父母達に冥土で御会い孝養を尽くします。母上もお待ちかねでしょう。
父上様母上様今生に於いてはお世話する事も出来ず誠に本意なく残念でございますが、何とも致し方も御座いません。何卒御体をお大切に長生して下さい。
兄上、姉上、色々お世話になりました。家族の者共を宜敷御願い申上ます。何時も唯お願するのみで何も出来なかった私でありました。何卒お許し下さい。戦争が如何に残酷なものであるかを良く覚えて居て下さい。永遠の平和への御努力あらん事をお祈り申し上げます。何者にも御怨をもたれず、平和な心持でお暮し下さい。昨夜申渡されました。昨日迄写真を見ました。皆様の顔のしわ迄良く見入りました。
◆部屋にはラジオ 短歌を朗吟して拍手

<榎本宗応の遺書>「世紀の遺書」巣鴨遺書編纂会1953年より
写真は後で後送されると思います。其の他のものはどうなるか判りません。歌等も書いて居りますので筆の乱れを御容赦下さい。今日迄元気に暮してきました。現在体重は着物をきたままで十七貫百六十匁(=64・35キロ)です。
では皆様何卒御体をお大切に仲よくむつみお暮し下さる様、幸を草葉の蔭から見守って居ります。明日は吾が魂は帰って行きます。親戚の方々等へも御宜敷く、別に最後の一通を書きますが届くや否やは不明らしいです。
取急ぎ此の手紙を書いて居ります。今、夕食の直前で昼からラジオが取付けられ今なって居ります。今日作った歌を同封します。仲々今日は出来ません。遺書を書いたり、さっきは今日の歌を声高らかに朗吟して見ました。他の人達が手を拍いて喜びました。言葉もつきませんが、呉々もお大切に。では皆様御機嫌御宜敷く。
四月六日午後五時十五分合掌南無阿彌陀仏
父上様外御一同様
昨日の朝の短歌
一塵の鷹の落し毛にも心をひきて今朝運動の獄庭に捨ひぬ