1950年4月7日。スガモプリズン最後の処刑で、死刑執行された7人のうちの一人、榎本宗応中尉。沖縄県石垣島で、墜落した米軍機搭乗員を杭に縛り付けて兵士たちに銃剣で刺突訓練をさせた榎本は、「軍隊にいたが故に人殺しをすることになった」と認識していた。妻に宛てた遺書で「子供は軍人になすな」と書いた榎本は、親族へも「戦争が如何に残酷であるかを良く覚えていて」と訴えていたー。
◆進学させるな 中道が無難だ

その隣が井上勝太郎副長 上段左から三番目が藤中松雄(米国立公文書館所蔵)
上坂冬子著「遺された妻 横浜裁判BC級戦犯秘録」(中央公論社1983年)には、上坂が榎本の妻、シヅコを訪ねた話がでてくる。「かなり豊かな農家」で宗応は婿養子だったという。妻に宛てた遺書で榎本は「中道即ち並の人間になれば良いのだ。之が一番無難だ」と書いた。
上坂によると、シヅコは一度だけ巣鴨に面会に行った際、榎本から「幸いうちには畑があるから、食べるぐらいはなんとでもなる。男の子には黙って百姓をさせろ。決して上の学校に進ませるな」とはっきり言われたという。シヅコは夫との約束を守って、子供たちは進学したいと希望したが許さなかった。長女は高校を出て近くに嫁いだが、二人の息子は義務教育を終えてすぐ仕事に就いたという。

榎本は遺書の中で、「自分は真面目に働き過ぎた」と書いた。軍歴は22年を数えるが、上官の命令に対して忠実に従い過ぎた、という後悔の念があったということなのだろう。「個人として人殺しをする様な心持ちは微塵もなかった」のに、結果として部下を指揮し、自らも手を下して、杭に縛ったロイド兵曹を銃剣で刺して殺害した。
◆7人の中で一番心配された人

石垣島事件の死刑執行が決まり、スガモプリズンで死刑囚が集められていた五棟から7人が連れ出されたのは4月5日の夜だった。7人を一人ずつ見送った西部軍の冬至堅太郎が榎本との別れについて日記に書いていた。
<冬至堅太郎の日記 1950年4月5日>
最後は榎本さん。何度も気が変になりかけた人だけに一番心配されたが、やはり落ち着いた態度だ。
E「色々とお世話になりました」
T「こちらこそお世話様でした。元気で行ってください」
E「はい、ありがとうございます」
石垣島事件の二回目の再審で6人が死刑から減刑されたのが3月28日。同時に7人の死刑が確定した。減刑された6人が死刑囚の棟から別の棟に移され、そして執行される7人が4月5日に連れ出された。冬至の日記によれば、この時点で死刑囚の棟に残されたのは21人だったという。
石垣島事件関係者だけでも10日ばかりで13名が棟を出て行ったわけで、寂しくなるのと同時に、「いよいよ私たちの番も近い」と、自分の死刑執行が迫っていると覚悟している。実際には、この7人の処刑がスガモプリズン最後の死刑執行であり、冬至自身は3ヶ月後、朝鮮戦争勃発後の7月に終身刑に減刑された。