◆処刑の方法を決めた会議に出席

榎本中尉は、スガモプリズンでは精神的に不安定だったという。横浜裁判では、法廷で証言することもなかった。しかし、井上乙彦司令や井上勝太郎副長ら幹部が揃って、3人の米軍機搭乗員をどのように処分するかを決めた会議のメンバーでもあったし、実際、処刑の現場にずっと居た人物なので、米軍は事件を構成する重要なポイントを3月の調べで聞いている。
例えば、井上乙彦司令の問いかけに対して、3人目の搭乗員を杭に縛って刺突をする提案をしたのが井上勝太郎副長であることや、突いた人数が約40人だったこと、要した時間は20分だったことなどだ。
◆信頼していた中尉をかばって嘘をついた

榎本中尉自身も「模範を示す」という体で、ロイド兵曹を突いており、また、「次、次」と兵たちを指揮して、順番に突かせた。そして、榎本の指示のもと最初にロイド兵曹を突いた藤中松雄と、その次に突いた成迫忠邦が死刑になった。藤中松雄は、「石垣島に来てから世話になった」という理由で、最初の調べでは榎本の命令ではなく、自主的に刺したと嘘を言った。共同謀議で関わった兵を一網打尽にしたいと企図していた米軍にとっては、意向通りの答えだっただろう。

藤中は後で法廷に立ってから、「心から信頼していた榎本をかばって嘘を言った、本当は命令があった」と、前言を翻したが、絞首刑の判決のまま、再審を経ても変わることなく死刑執行された。田嶋教誨師が処刑直前の法話をした仏間で榎本と一緒に葡萄酒を飲み、同じ時間に絞首台に登った。
藤中が慕うくらいなので、榎本は優しい人柄だったのだろう。妻に向けた遺書には、人間味がある言葉が並んで居る。