1945年4月15日、沖縄県石垣島で墜落した米軍機搭乗員3人が捕らえられ、その夜大勢の日本兵が取り囲む中で処刑された。二人は斬首され、一人は多くの兵から銃剣で突かれて殺害された。戦後、米軍がBC級戦犯として46人を横浜軍事法廷で裁いた石垣島事件だ。最終的に死刑が執行された7人の中には、現場を仕切っていた榎本宗応中尉が含まれていた。榎本中尉は宮崎県出身。40代半ばで3人の子が居た中尉は、妻へ宛てた遺書に「子供は軍人にはするな」と書いたー。
◆3人の父親 宮崎県で農業を営む中尉

榎本宗応中尉(事件当時)が1947年3月10日に東京の明治ビルでとられた調書が、国立公文書館が所蔵する石垣島事件のファイルにあった。まず、福岡に呼び出されて調べられた後、1ヶ月半後に東京に呼ばれたということだ。スガモプリズンに入所したのは、その4ヶ月後、7月3日だった。最初に経歴などを聞かれている。
宮崎県在住の榎本中尉はこの時43歳。職業は農業だ。既婚で娘一人と息子二人がいる。再審査用資料のプロフィールを見ると祖母と父、弟も一緒に住んでいたようだ。学歴は小学校卒で1923年6月に海軍に入り、佐世保で初期訓練を受けたあと、戦艦陸奥や霧島に乗船している。上海や海南島での作戦に加わり、最後に石垣島警備隊に赴任した。敗戦までの軍歴は22年。その年の9月に大尉に昇格している。
◆全面公開された起訴状

国立公文書館には、法務省から移管されたBC級戦犯の資料が収蔵されている。石垣島事件に関する資料は、これまで名前が黒塗りにされ、アルファベットがふられたコピー資料が公開されていたが、審査を経て、ようやく原本を閲覧できるようになった。2025年2月、公開の通知を受け、黒塗りのない資料を見た。その中に、榎本中尉の起訴状があった。

<榎本宗応の起訴状>
原告 アメリカ合衆国
米国第八軍司令官の召集したる軍法委員会に
被告人 エノモト・ムネオ
を左の理由に依り起訴す
(罪状項目)
1,被告人エノモト・ムネオは昭和20年4月15日前後、沖縄県八重山郡石垣島に於いて左の日本軍軍人共及び其の他の姓名不詳なる日本軍軍人共と共同の上合同し、共同意思を以て、米軍俘虜ワレン・エイチ・ロイドを打擲し或いは銃剣を以て突刺し、或いは其の他己が指揮取り締まり及び監督下の日本軍軍人共の該俘虜を打擲し銃剣を以て突刺すを命じ、強制し且つ許容せることにより、該俘虜を故意且つ不法に虐待酷遇し、且つ之が死体を毀損せり
(※続いて41名の被告人氏名が記載)
2,被告人エノモト・ムネオは昭和20年4月15日前後、沖縄県八重山郡石垣島に於いて他の己が指揮取り締まり及び監督下の日本軍軍人共の死亡せる米軍俘虜ワレン・エイチ・ロイドの死体を、其の他の死亡せる米軍俘虜ヴァーノン・ロウレンス・テボ、ロバート・タグル・ジュニア一名の死体を入れたる死刑用墓に蹴り落せしめ、然る後之を墓たる適当の標識を設けず、土塊及び岩石を以て該墓を覆うことを命じ、強制し且つ許容したることにより該俘虜共の死体を故意且つ不当に埋葬せり
連合国最高司令部 法務部長 アルヴァ・シー・カーペンター