「注射による意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似していたため、仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」

平野がK教授が児玉邸を訪れたタイミングについてこう語る。

《わたしは前尾繁三郎衆院議長の議長秘書として「医師団派遣」の調整に関わっていたので、時系列の記憶に間違いはない。
この日、2月16日は国会の医師団の派遣をめぐり、衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。やっと「医師団の派遣」が決まったのが、正午過ぎで、メンバーが揃ったのが午後4時頃だった。
そこから当日に行くべきか、翌朝に行くかを検討し、最終的には夜7時になって当日の派遣が決まった》

しかしK教授は、その日の午前中、国会の医師団の派遣が正式に決まっていない時点で、すでに児玉邸に赴く手はずを整えていた。
つまりK教授は、国会の中枢や与党幹部などから情報を入手していた可能性が高い。

平野はこう確信している。

《つまり、児玉の主治医のK教授は、「国会の医師団」の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに「国会の医師団」が今日中に児玉邸を訪問する”ことを知っていた。医師団の派遣は「機密事項」だったにもかかわらず、なぜK教授は知っていたのか。それは、国会運営を取り仕切る中枢にいて、かつ児玉の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない》

そこで、重大な疑問は「国会の医師団」の訪問予定時間を、K教授に事前に伝えたのは誰なのかということである。

「医師団を派遣するかどうか、いつ派遣するかどうか、というのは、当然、与党の幹事長、国対委員長は知る立場にある。そこで、医師側(K教授)に情報が流れて、対応したんじゃないか」(平野元参議院議員)

児玉と昵懇と言われた中曽根は当時、三木武夫内閣で自民党幹事長として当然、真っ先に情報を知る立場だった。

佐藤栄作内閣最後の防衛庁長官を務め、運輸大臣も経験していた中曽根は、防衛族の中心にいた。中曽根は防衛庁長官時代に、対潜哨戒機の「国産化」を主張していたが、「あるとき、国産派から一転して輸入派に翻意した」と国産派から批判された。

東京地検特捜部も当初、関係者の事情聴取などから、ロッキード社が「中曽根の親分」である児玉に働き掛けて、中曽根が対潜哨戒機の国産化を断念するよう頼んだのではないかとの見立てをもっていた。
しかし、ロッキード社の「捜査資料」のなかに、中曽根に結びつくような「証拠資料」は見つからなかった。

また前述の通り、コーチャンは「回想録」のなかで「児玉を通じてロ社から依頼を受けた中曽根が“経営危機”を回避してくれた」と記している。(中曽根側は否定)
いずれにせよ、日本政府は1972年、「国産化」を「白紙撤回」し、ロッキード社製の「P3C」を輸入することになった。

平野貞夫はこう締めくくる。

「もし児玉の証人喚問が実現していたら、事件は違った方向に展開していた可能性がある。ロッキード社から丸紅経由で田中角栄が受け取ったのは「5億円」、一方、ロッキード社から児玉に渡ったのは「21億円」だ。児玉の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中角栄一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし検察が児玉ルートに切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根だったはず」

国会の「証人喚問」で証言する中曽根康弘自民党幹事長(1977年)

堀田の回想「深い闇に一本の細い光を射した」

2010年、朝日新聞が「ロッキード事件発覚時に中曽根が米国に「もみ消し」を要請していた」というスクープを報じた。
自民党幹事長だった中曽根が、密かにアメリカ側に接触し、政府高官の名前を出さないよう「もみ消し」を国務省に要請していたという衝撃の事実だった。

ロッキード事件が発覚したのは1976年2月4日。
2週間後の2月18日、さっそく三木武夫総理が米側に捜査資料の提供を要請した。
朝日新聞が報じた米公文書によると、三木総理の状況について中曽根は「苦しい政策」と表現した上で、「そういう公開、暴露はできるだけ遅らせてほしい」とアメリカ側に依頼したという。

しかし、翌2月19日の朝、中曽根は再びアメリカ側に接触し、前日の夜のメッセージを変更したいと申し出る。

そして新たに伝えたメッセージはこうだ。