「国会の医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、だから、そうならないように注射を打って対策を施すのだ」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」(K教授)
天野医師はK教授の言葉に耳を疑った。
フェノバールはどうしても眠れない患者や、てんかん発作の発作の際に使われる強力な睡眠剤であり、また、全身麻酔をかかりやすくするための前投薬にも使われるという。
セルシンもまた、興奮状態の患者を鎮めるための強力な睡眠薬である。
これらを同時に使用すれば、数時間にわたって昏睡状態に陥り、患者は口も利けなくなるのだ。
天野医師は必死に引き止めようとした。
「先生、そんなことしたら、医師団が来ても児玉さんは完全に眠り込んだ状態になっていて、診察できないじゃないですか。
そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」
しかし、K教授は一蹴する。
「児玉様は俺の患者だ。口を出すな」
児玉への注射を止めさせようとした天野医師に、K教授は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて、急いで出ていったという。

天野医師はこう振り返る。
「これらの注射によって生じる昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似していて、見分けがつかない。もちろん血液や尿を採取すれば、薬物の存在を確認することはできます。しかし、国会の医師団は、まさか児玉にこのような注射が意図的に打たれているとは考えもしなかったでしょう。それ故、彼らが児玉の症状がこのような注射によるものだと見抜けなかったとしても無理はありません」
つまり、国会の医師団が診断した「重症脳梗塞による意識障害」は、実はK教授が事前に打った注射によるものであった。
K教授は「国会の医師団」が報告する診断書が、14日に自分が提出した診断書と矛盾しない結果になるよう、あらかじめ児玉を眠らせ、証言を封じ込めようとしたのだ。
そのため、K教授は何としても「国会の医師団」が到着する前に、児玉に注射をして眠らせなければならなかった。
つまり、K教授が14日に提出していた「重症脳梗塞による意識障害」は「ねつ造」されていた疑いが強く、国会の医師団もだまされたのだ。
天野医師は「明らかに児玉を『証人喚問』に出させないための『口封じ』工作が行われた」と断言する。
これを境に、K教授と天野医師の仲は険悪になったという。
その後、天野医師自身もK教授の指示で、別の医師と2人で、児玉邸に8回ほど点滴のために往診した。
このときもK教授から「児玉様には話しかけるな」と釘をさされた。
3月には東京地検特捜部による児玉への臨床尋問も行われたが、この間、児玉の治療方針をめぐって天野医師とK教授の対立は深まる一方であった。
1988年、K教授は定年退職を前に医局員を集めて「天野を追い出せ」と演説、定年後も後輩の歴代教授に絶大な影響力を行使した。
以降、天野医師は教授選に5回立候補したが、昇格できず、さらに病棟医長を解任され、手術の機会を減らされ、研究班も解体されるなど、K教授の弟子だった主任教授からさまざま嫌がらせを受けた。
あるときは郵便物が抜き取られたり、患者待合室の名札が取り外されたり、パソコンのプリンターにのりが塗られるなど、嫌がらせはエスカレートし、1999年には専用の個室も剥奪され、2000年には担当の講義も外された。
これに対して、天野医師は2000年4月、「退職理由は職場のハラスメント」と書いた辞表を学長にたたきつけた。
そして、東京女子医大と主任教授を相手取って、損害賠償を求める訴えを起こすに至った。
「昇格差別を受けて、25年間も助教授として留め置かれた末、執拗な退職を強要されて職を失った」(訴状)
2003年、一審の東京地裁は「天野医師の上司である主任教授が行った違法な退職勧奨は、ことさら侮辱的な表現を使って、名誉を毀損しており、許容限度を逸脱している」と認定し、450万円の賠償を命じ、2004年に最高裁で確定した。
さらに判決では、主任教授が天野医師に対して「お荷物的存在」「生き恥をさらすより、ふさわしい場を見つけてほしい」「助教授から助手に降格する」などと発言していた事実も認定された。
ある自民党の秘書は児玉の診断についてこう回想する。
「当時は前尾衆議院議長ら、実は関係者もK教授を怪しいと感じていた。児玉様と呼んでいる教授の診断書を誰が信用できるのかと・・・・・」

「国会医師団」の訪問日時は漏れていたのか・・・
天野医師の告発を裏付けるかのような証言がのちに世間を驚かせた。
元参議院議員で、当時は前尾衆院議長の秘書だった平野貞夫だ。
このとき、平野は「国会の医師団」派遣の調整作業を行なっていた。
平野氏は当時から、「極秘事項」とされた児玉邸への「国会の医師団」派遣の日時が、事前に漏れていたのではないかと疑念を抱いていた。
その「情報漏洩」を平野が確信したのが、やはり前述の天野医師の告白であった。
平野は著書でこう述べている。