丸紅の大久保専務の部下であった元航空機課長・坂篁一は、TBSのインタビューで、特捜部から「P3C」に関する事情聴取を受けていたことを認めている。

「トライスターのことがほとんどでしたが、『P3C』についても聞かれました。少なくとも2回くらい……日本への売り込みの状況についてだったと思います」
(1983年9月25日 TBSニュース)

丸紅の内部事情を詳しく知る坂は「事件の核心はトライスターではない」と強調した。

さらに「P3C」をめぐる関係者のこんな証言もあった。

「1973年のことですが、通産省が次期輸送機『YX』計画を進めていたとき、調査のためにある人物がアメリカを訪れた。すると現地で、『日本がロッキードの対潜哨戒機(P3C)に決めてくれてありがたかった』と感謝の言葉を受けたのです。
私たちも驚きました。まだ対潜哨戒機の専門会議は検討中の段階で、正式決定は3年後の1977年のはずでした。にもかかわらず、すでにロッキード側で『決まった話』になっていたのは衝撃的でした」
(航空評論家・青木日出雄 TBSニュース1983年9月25日)

これは、「対潜哨戒機」の国産化が「白紙撤回」となった翌年の1973年の出来事だが、日本への「P3C」導入が、すでにその時点で既定路線となっていたことを伺わせる証言だった。

ロッキード社の軍用機である対潜哨戒機「P3C」

国産化方針が「白紙撤回」された裏で何が起きていたのかーー。
のちに各メディアの一斉報道で水面下の動きの一端が明らかになった。
1972年10月の「国防会議」に先立ち、田中総理、後藤田官房副長官、相沢大蔵省主計局長が、密室で国産化の既定方針を覆したというのだ。

発端は、ロッキード事件発覚直後の1976年2月9日、久保防衛事務次官の会見での発言だった。久保は防衛局長時代の記憶にもとづいて、こう説明した。

「私はその場にいなかったが、国防会議が始まる前に、総理執務室に後藤田さんと二階堂さん、相沢さんが田中総理に呼ばれ、そこで方針が変わった」

この発言は、田中総理がロッキード社の意向を受けて国産化を「白紙撤回」したことを強く印象づけ、政界に激震を走らせた。
1976年2月10日、各メディアは「対潜哨戒機の国産化白紙撤回(P3C輸入へ)ーに疑惑」と報じ、「白紙撤回」の不透明な経緯を指摘した。

ところが――
会見後、後藤田氏と相沢氏から強い反論と抗議を受けた久保事務次官は、「発言は記憶違いだった」と訂正を強いられ、訓戒処分を受けた。

発言は訂正されたが、時すでに遅し。世間もマスコミも勇気ある久保発言は「信憑性が高い」と受け止めた。
「田中角栄、後藤田、相沢」の密議で「P3C」の導入が決定したというイメージは拡散した。

そもそも「対潜哨戒機」の国内開発、国産化は、1970年頃から、航空に強い日本を立て直すための施策として大蔵省で予算付けを行い、防衛庁は「川崎重工」など日本メーカーによる国内開発をめざして準備を進めていた。

しかし――
1972年7月に田中角栄が内閣総理大臣に就任。8月、ハワイで行われた「田中総理・ニクソン大統領」会談の直後、突如として国産化方針は「白紙撤回」された。
これにより、日本はロッキード社の対潜哨戒機「P3C」輸入へと大きく舵を切った。
同社は、ニクソン大統領の強力なスポンサーでもあり、ニクソンは同社救済のために、議会の猛反対を押し切って「750億円」の緊急融資を実行するなど、後ろ盾となっていた。

国産化の「白紙撤回」から10カ月、国産化の余地を残したような対潜哨戒機「専門家会議」が発足、さらに1年半にわたる審議が続いたが、まるで時間稼ぎのように事実上、国産化は断念された。

そして――
ロッキード社が「丸紅」を通じて田中総理に「5億円」を渡したとされる1973年から1974年。
この時期は、日本が「P3C」輸入へと大きく傾く時期と完全に一致する。

この間、ロ社は黒幕の児玉誉士夫、実業家の小佐野賢治といった政財界のフィクサーたちを巧みに操り、その思惑を着実に実現へと近づけていったと見られる。
そして、同社は対潜哨戒機「P3C」を日本に売り込むことに成功し、倒産寸前の状態から息を吹き返したのだ。

田中角栄総理・ニクソン大統領の日米首脳会談 (ハワイ 1976年8月31日)

疑惑の交差、重なり合う「トライスター」と「P3C」

前述の通り、ロッキード社には、二つの顔があった。
ひとつは、初の民間大型ジェット旅客機「トライスター」の売り込みを確実なものにすること。
もうひとつは、敵の潜水艦を見つけるための軍用機、対潜哨戒機「P3C」を防衛庁に採用させること。
この二つの思惑などを時系列(TBS取材、公判資料など)で追うと、その動きはほぼ同時進行していた――。