1976年、日米を揺るがす戦後最大の疑獄、ロッキード事件が幕を開けた。
ロッキード社――世界屈指の軍用機メーカーであり、アメリカ「CIA」との繋がりも深く、「CIA」の偵察機や米軍の航空機を手掛けていた。

東京地検特捜部は当初、ロッキード社の秘密代理人であり、戦後の政財界の「フィクサー」と呼ばれた大物右翼、児玉誉士夫に流れた「21億円」に注目、軍用機である対潜哨戒機「PC3」の売り込み工作が、同社の真の狙いではないかと見ていた。

さらに児玉に最も近い政治家と言われた元防衛庁長官で中曽根康弘自民党幹事長(当時)の名前も浮上していた。

当初、政府は念願だった日本メーカーによる「対潜哨戒機」を国産化する方向で、大蔵省が予算付けなどを進めていた。
これに対してアメリカは『勝手なことはさせない』と反対する。そんな中、田中角栄政権が誕生、政府の国防会議は「国産化」を「白紙撤回」したのである。
その結果、日本はロッキード社の対潜哨戒機「P3C」の輸入を決めるに至った。

しかし、本来こうした「P3C」導入をめぐる疑惑の解明をめざずはずだった「児玉ルート」はいつの間にか、捜査線上から消え、それに代わって、民間旅客機「トライスター」導入をめぐる「丸紅ルート」が急浮上。

そして、田中角栄元総理が丸紅を通じて「5億円」のワイロを受け取っていたことがわかり、ロッキード事件の捜査は決着したのである。

(20)(21)に続いて本稿ではロッキード事件の捜査や裁判に長く関わった堀田弁護士に感謝と哀悼の意を込めて、「本命」と見られていた軍用機の対潜哨戒機「P3C」めぐる疑惑に光を当てる。なぜ「軍用機利権」の疑惑は闇に葬られたのか、あらためて関係者の証言や資料を紐解きながら、戦後最大の闇の一端に迫る。

もう一つのロッキード事件「P3C」が公文書に記載

ロッキード事件のニュースが、連日テレビや新聞で報じられていた1976年の夏。
筆者は小学5年生の野球少年だった。はっきり覚えていることは、テレビのニュースを読んでいるアナウンサーが「田中角栄元総理大臣」のことを「田中は〜」「田中が〜」などと、「呼び捨て」にして、連呼していたことだった。
そのとき、母と次のような会話をしたような記憶がある。

「なんで総理大臣やのに呼び捨てにしとるの」
「それは悪いことして捕まったからや」
「悪いことすると、テレビで呼び捨てにされるの」
「そうや」
「どんな悪いことしたの」
「よくわからないけど、外国の飛行機の会社からお金をもらってたらしいよ」
「これからどうなるの」
「どうなるんやろね。木村さん(旧三重1区の衆議院議員)大丈夫やろか、田中さんのときの外務大臣やで」
「へーそうなんや」

この会話には二つの説明が必要だ。
一つは、一国の宰相、総理大臣だった政治家が「田中」と「呼び捨て」にされていたことは、小学5年生だった筆者にとって、事件の重大さを実感させる、強烈な印象として刻まれた。

当時、逮捕された人物はニュースの呼称はすべて「呼び捨て」の時代だった。
しかし、「人権尊重」への意識が高まるにつれ、テレビ局や新聞各社は犯罪被疑者の「呼び捨て」を廃止し、「〇〇容疑者」と表記するようになった。
これが完全に定着したのは、筆者が社会人になった1989年以降のことである。

もうひとつの記憶――「木村さん」とは、田中角栄内閣で外務大臣を務めた木村俊夫議員のことだ。佐藤栄作内閣では「沖縄返還」に尽力し、外務大臣として初めてアフリカ大陸を訪問するなど、外交の分野でも活躍した。

筆者の地元では「クリーン」なイメージで親しまれ、支持も厚く田中角栄とも近い有力国会議員だったが、幸いにもロッキード事件とは無縁だった。

そんな会話を交わしていた小学生が、後にロッキード事件の捜査に携わった堀田弁護士と番組出演やインタビューを通じて、ご縁をいただくことになるとは、まさに不思議な巡り合わせである。

ロッキード事件の発端は1976年2月、企業の不正を追及するアメリカ議会上院の多国籍企業小委員会公聴会が、突然明らかにした衝撃の事実だった。

「世界最大の軍需企業、ロッキード社が、世界各国の秘密代理人を通じて、政府高官(政治家)にワイロをばらまいて、軍用機や民間機を買わせていた」

「日本の代理人、児玉誉士夫に21億円、丸紅に5億円、その先は政府高官に流れた」

「ロッキード社が受け取ったヒロシ・イトー(丸紅専務)の領収書がある」

贈賄側がロッキード社とその日本代理店、丸紅であることは明白だった。
しかし、日本の検察当局が本格的に捜査を進めるためには、アメリカ司法省の協力が不可欠だった。
「捜査資料」を入手し、ロッキード社幹部らを「嘱託尋問」――すなわち、現地での取り調べを行う必要があった。

この任務を託されたのが、当時、法務省刑事局に在籍していた堀田力だった。
堀田は「極秘渡米」を命じられ、米司法省との交渉に臨んだ。途中で東京地検特捜部に異動し、本格的に捜査班に加わることになる。

交渉の結果、アメリカ側は捜査のためだけに限定して使うこと、いわゆる「政府高官名」(大物政治家)は公表しないという条件で、「捜査資料」の提供に同意した。

帰国後、届いた捜査資料を解読していた堀田が見つけたのは、ロッキード社のコーチャン元副会長が手書きした「人物相関図」だった。
そこには「TANAKA」(田中角栄)の文字が記され、同社から丸紅の檜山社長、大久保専務、伊藤専務を経由したカネの流れが、生々しく矢印で示されていた。

しかし、アメリカにいるコーチャンらの取り調べは容易ではなかった。