◆煩悩は忌み嫌うべきものではない

成迫は学徒出陣が決まった1943年に20歳を迎え、海軍に志願して入った。米軍機搭乗員を殺害した石垣島事件に関わり、死刑を宣告されてから2年。死と向き合う中でこうした考えが得られたという。
<成迫忠邦の遺書>
前に本来の仏の姿は煩悩と云う霞がかかっているから云々と書きましたが、煩悩について一寸私の考えを述べましょう。人は誰でもこの煩悩があるのです。それが為に人と争いごとをしたりくだらぬ事に胸をもやしたり、とんでもない禍を起こしたりするのです。だから煩悩といえば普通一般の人は一も二もなく忌み嫌っているのですが、実はこの煩悩は忌み嫌うべきものではないのです。例えば先刻のお母さんの例をとりますと、心が苦しい時とか、胸をもやされる時など必ず不動様や阿弥陀様を称へて、その時だけでも仏になれると云う事は一口にいえば煩悩があるからです。
夕食後でも「やれ不動様を拝もう」と思い立つ心が即ち煩悩の働いた時であり、次の瞬間はその煩悩がその儘仏の姿に一変しているのです。若し煩悩がお母さんになかったならお母さんは不動様も阿弥陀様も拝まない、想像も出来ない程のつまらない人になるかも知れません。一般の人は自分が苦しいことや悲しいことを嫌っているようですが、この苦しい心があってこそ、お母さんのように仏に手を合わせる気持にもなり、また先刻述べた様に幸福もあるのです。だから苦しい時は思いきり苦しむことです。そしてその苦しみは誰が苦しんでいるのかといえばお母さんの場合にはお母さんが宿っている仏(不動様、阿弥陀様)が苦しんでいるのです。これを自覚するか、或はしないかに依って人の幸福は千々に分かれるのであります。
◆スイッチをひねるか否かで価値が決まる

<成迫忠邦の遺書>
これをラヂオにたとえて述べますと、何時も電流が通じているラヂオがここにあるとしますと、これは仏教でいえば、仏性(仏になる性質あるいは種子)と云うものを人は誰しも有して居ることに相当します。ではこのラヂオのスイッチをひねるか否かに依って、仮令電流が通じているラヂオでも物を云ひ出すか云ひ出さないかになるのです。人間もこのラヂオと同じような理窟でその仏性を活躍させるか、させないかによって、その人の価値は決まるのであり、又幸福もそれに左右されるのです。而も人間のスイッチは自分自身でひねらない限り誰も他の人はひねってくれないのです。
お母さんの場合には仏の名称を称える姿がこのラヂオの唸り出した時と同じ意味になるのです。そしてそのままの清い美しい心で生活する時、そこには不平不満もなく、十万億土を過ぎた極楽浄土を求めなくとも、そのままがお母さんにとっては極楽浄土であり、仏国土であるのです。
私はつまらない考えながらも、何時かはお母さんに会うことが出来たらこの事は是非共お話したいと思っていましたが遂にその機会を得ることが出来ませんでした。そしてこのことだけが子として生まれた忠邦のお母さんに対する最も大きな孝養の一つだと思っていました。ところがその面談の機会は得ませんでしたが幸にもこの通りに鉛筆も紙もそして時間も与えられて断片的に拙文でも綴ることが出来ましたことを仏に対して深く感謝しているものです。