■「断交の意向」伝えるはずの台湾で特使が告げたのは“外交の維持”

そして1972年9月17日、椎名特使が複数の議員を伴い台湾へ。松本さんも一緒に交渉が行われる会場に向かった。ところが、待ち構えていたのは日本への激しい抗議だった。

デモ隊は「椎名帰れ」などと書かれたプラカードを掲げ、「蒋介石総統への恩を忘れるな」などと訴えた。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「(空港を)出ようと思ったら(車が)囲まれちゃった。日の丸のステッカーを目指してガーンときて、粉々にガラスが散ったんですよ」

ガラスの破片を頭からかぶってしまった松本さん。すると同乗していた「ハマコー」こと浜田幸一衆院議員(当時)が一言

浜田幸一 衆議院議員(当時)
「我慢しよう」

銃を持つ警備の制止を振り切って車に詰め寄る市民たち。この激しいデモについて、松本さんはこう解説する。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「一般のデモなんてないんですよ。だからこれは官製デモでね。政府がやらせているというか黙認しているというか分かりませんが」

その後、協議に臨んだ椎名特使。田中総理らに“断交の意向”を伝える役目を期待されていたが…

自民党元職員 松本 彧彦さん
(外交も含めて)中華民国との関係を維持・継続すると、こういう主旨の発言になる。『えーっ』と言って、みんな驚くわけです。椎名さんは当然総理の考え、外務大臣の考えは
知ってるわけですよ。百も承知ですよ。だから必ずこれは日中国交正常化をやる。日中国交正常化をやれば日台との国交が切れることは分かっているわけですよ。だけども、そんなことは言えない。言ったら大変なことになっちゃうから」

椎名特使はなんと“台湾との外交を維持する”と告げたのだ。なぜか…

松本さんが持参したメモには、中国との国交正常化交渉を進めるにあたって、自民党が党議決定した“ある方針”が書かれていた。

「中華民国との深い関係にかんがみ、従来の関係が継続されるよう、十分配慮のうえ交渉すべきである」

この「従来の関係」という言葉。「台湾と国交がある関係を継続する」ともとれる一方で、「外交関係を除いた民間ベースの関係を継続する」とも取ることができる、玉虫色の表現だった。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「両方が自分たちに都合の良いような解釈を出来るようになっているんですよ。こうしないと収まらなかった。両派が自由勝手に解釈できるようにしておかないと」

椎名特使は、この“従来の関係”に“台湾との外交継続”が含まれると伝えたのだ。断交後の民間交流を見据えて、関係悪化を最小限に食いとめようという苦肉の策だったと松本さんは言う。

■見切り発車のまま北京へ 一命を賭して向かった田中角栄氏の覚悟

一方、日本国内では田中総理が党内の親台湾派を説得しきれないまま、北京訪問の日を迎えようとしていた。

田中真紀子さん
「中国に出発する間際の時も、岸さんが来られて会っているんです。両院議員総会やってもダメなので最後、父は見切り発車。もう、まとまらないんだから何十年間も。自分の責任でやる。一命を賭して行く」

出発の日、目白の自宅を発つ直前、田中総理は…

田中真紀子さん
「父(田中総理)が左手に(孫の)雄ちゃんを抱っこして『北京はどっちだ?』って言ったら『あっち』って。『そうかあっちか。じゃあおじいちゃんはあっちに今から行きます。元気でね。必ず帰ってくるよ』って言って(孫を)下ろして。警護官に囲まれて車に乗って、ダーッと高速で行っちゃったんです」

そんな田中総理らを北京で待ち構えていたのは、周恩来首相。両者の間ではタフな交渉が繰り返された。台湾問題をどう扱うかが焦点の1つだった。

中国が「台湾は中国の領土の不可分の一部である」と主張したのに対し、田中総理は日本国政府として「その立場を十分理解し尊重する」と表明した。交渉記録には次のようなやり取りがあったと書かれている。

周恩来 首相(当時)
「明日大平大臣が調印後、記者会見で日台外交関係が切れることを声明されると聞いたが、大いに歓迎する」

田中角栄 総理(当時)
「我々は異常な決心を固めて訪中した。明日の大平大臣の記者会見で台湾問題は明確にする

そして1972年9月29日、日中両国は共同声明に調印。日中国交が正常化し、同時に台湾は日本との国交を絶った