■「台湾を捨てちゃいかん」自民党内は親中国派と親台湾派が罵声の怒鳴りあい

一方自民党内には「反共産主義」の立場から中国を警戒し、台湾との国交継続を求める議員たちが大勢いた。親中国派と親台湾派で、日々激しい議論が交わされていたという。

親台湾派 ・中山 正暉 元郵政大臣
「罵声で怒鳴りあいですよ。それはひどかったですよ。台湾を捨てちゃいかんと」


中山正暉 元郵政大臣
「(蒋介石は)毛沢東にやられるまで日本のために努力してくれた。日本人は中国でいろいろ悪いことをしたけれど、それはもう許してやろうと。『暴に報いるに徳を以てする』と言う言葉で日本に対しておおらかな判断をしてくれた」

「以徳報怨」(徳をもって怨みに報いる)。そんな言葉で戦後賠償の請求を放棄した蒋介石に恩義を感じる人も多かったと言う。中山氏ら若手議員は、後に「青嵐会」と呼ばれる政策集団を立ち上げるが、そのうちの1人・石原慎太郎氏は中国への強い警戒感をあらわにしていた。

石原慎太郎氏
「中国が大きな経済国家として台頭してきた時、一番先に甚大な被害を被るのが日本です。政治的にも経済的にも、軍事的にもやっかいな存在になり得る国と、これからもっとやっかいな問題が起こってくると思う」

さらに親台湾派には、安倍元総理の祖父・岸信介元総理が名を連ねていた。

岸信介 元総理
「いまアジアを徘徊している共産主義は、もはや過去の妖怪であるに過ぎません」

田中総理はこの親台湾派の説得に、大変な苦労をしていたと真紀子氏は言う。



田中真紀子さん
「当時の雰囲気を見てても、とにかくドタバタ忙しくて。会議ばっかりやっていて疲れて帰ってきて機嫌が悪く。(中国に)行く前の方がよっぽど疲れて、気苦労が多かった」

■「国交断絶」の“特使”受け入れぬ台湾へ 送り込まれた“密使”

田中総理は“親台湾派”の一人で、自民党の実力者、椎名悦三郎副総裁(当時)を台湾に特使として送り「国交を絶つ」意向を伝えようとしていた。だが、台湾はこの特使受け入れを認めない。そこで、田中総理と盟友の大平正芳外務大臣(当時)は議員ではなく、自民党職員の松本彧彦氏に秘策を託した。

1972年8月19日。松本さんは大平大臣の自宅に呼び出された。そして…

自民党元職員 松本彧彦さん
「(大平大臣から)いま外務省で中華民国大使館に対して、日本政府の台湾への特使の派遣交渉をずっとやってきているんだと」

特使を派遣できず困った大平大臣は、松本さんに“密使”として台湾に渡り、椎名氏の受け入れを説得するよう迫ったのだ。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「外務省が一生懸命やってたわけですから、それで出来ないものを私が出来るのかと」

思わぬ大役に悩んだ松本さんだが、結局「密使」を引き受けた。

台湾に渡った松本さんは、つてを辿って総統府の実力者で蒋介石総統の側近、張群氏と会談にこぎつける。そして「特使が受け入れられないということになると、日本と中華民国(台湾)の間に、何かしこりのようなものが残ってしまい、私たち若い者たちの交流にも支障をきたしかねないと心配される」と特使受け入れの重要性を力説した。

自民党元職員 松本 彧彦さん
「(張群氏は)『君の話は良く理解できた』と。『じゃあ受け入れてくれますか?』と言うべきかどうか私も思ったんですがね、そこまでちょっと図々しく言えなかったんで、雰囲気は、これは悪くないなと思って失礼をした」

こうして特使受け入れが決まった。