
開発計画の背景には、地域の「人口流出」がありました。昭和20年代の終わりに始まった高度経済成長では、集団就職などで多くの若者がふるさと鹿児島から都市へと移動。
この流れに歯止めをかけようと、県が昭和46年=1971年に打ち出したのが、「新大隅開発計画」です。

国定公園でもある志布志湾を埋め立てて、石油コンビナートや造船工場などを建て、3万2000人の雇用を生み出すプランで、国が打ち出した「新全国総合開発計画」に沿う事業でした。
時代は高度経済成長、真っ只中。戦後日本が活気づく一方で、大気汚染や水質汚染などの環境破壊は深刻化…。八代海沿岸では水俣病による健康被害の報告が上がり始めていました。
こうした中、県の新大隅開発計画も激しい反対運動が勃発。計画の一次試案は、昭和47年=1972年、廃案に追い込まれます。