今、中国に暮らす日本人は、10万7000人あまり。常に対日感情が良好とは言えない中国で、彼らはどんな思いで日本と中国を見ているのでしょうか?
2022年は日中国交正常化50年。JNN北京支局、上海支局の記者が聞いた「私が中国で暮らすわけ」。そして「私が思い描く日中のこれから」。
■建築家のスタートの地を「中国・北京」に選んだわけ
2011年春、東京の大学院で建築学科を卒業した鶴崎洋志(つるさきひろし)さん(35)は社会人としてのスタートの地に、中国・北京を選びました。
「学生だった当時、東京オリンピックが決まる前だったこともあり、日本の建築業界全体にあまり元気がない印象でした。若いうちから大きなプロジェクトを任せてもらうための道を考えるうちに、海外での就職を選択肢として考えるようになりました。なかでも中国は、当時世界的に有名な海外の建築家が次々に新しいプロジェクトを進めていて興味を持ち始めました」
それまで、中国との関わりはほとんどありませんでした。しかし大学院2年の夏、自分の目で現地を見てみようと、北京の建築設計事務所で2週間のサマーインターンシップに参加。その場で事務所の中国人社長に直談判をして内定を勝ち取りました。
鶴崎さんにとって、日本と中国の建築業界は全く違う世界でした。日本で建築家として独立を目指す若者が最初の働き口として選ぶことが多いアトリエ設計事務所は、一般的に住宅などの小さなプロジェクトが多く、大学院を卒業していても給与が低い上に、過酷な労働環境であることも多いといいます。

一方、中国では若いうちから大きなプロジェクトを任され、それを凄まじいスピードで進めていく経験が積める上に、ある程度の給与が保証されていて日々の勤務時間も自分で管理できるなど、環境や待遇の面でメリットを感じたといいます。実際、鶴崎さんは中国で建築家として働き始めてすぐ、内モンゴル自治区・オルドスにあるいくつかの大規模建築プロジェクトに参加することができました。
「この国の、若い人にもチャンスを与え、挑戦する人の背中を押す文化に驚きました」
■緊張する日中関係 北京で暮らし何を感じたのか
中国での生活が始まり、ちょうど1年が過ぎた2012年。日本政府による尖閣諸島国有化をめぐり中国国内の反日世論が高まりました。北京では日本大使館がデモ隊に囲まれるなど非常に緊張した状態に陥りました。
しかし、鶴崎さんはかえって周囲の中国人の友人の温かさを感じたといいます。
「たしかに当時は街中で日本語を話すことがはばかられるような雰囲気がありました。でも、職場の友人やプライベートで仲良くしてくれている周りの中国人は、僕の安全を常に気遣ってくれたのです。ニュースで連日報じられていたような反日的行動をする人は、北京の中でもほんの一握りだったのではないかと思います」
また同じ頃、鶴崎さんが野外イベントに日本の浴衣を着て参加した時には、多くの中国人に一緒に写真を撮ってほしいと声を掛けられ、「こんなにも日本文化が人気なのか」と驚いたといいます。しかし、後にその写真がアップされた中国のSNSをチェックしたところ、「よく中国で日本の服なんて着られるな」「小日本(日本や日本人に対する蔑称)」など批判のコメントも見られたそうです。
「どの国でもネット上ではほんの一部の人が過激なコメントを書きますよね。それは日本も中国も同じだと思うのです。大事なのは、過激な考えを持っている人はほんの一部だけだということを理解することじゃないでしょうか」
■「本当は日本食が食べたい」同僚が打ち明けてくれたことも
日中関係の緊張はその後も続き、北京にある多くの日本料理店は厳しい経営状況に追い込まれました。
中国人の同僚は鶴崎さんに「本当は日本食が食べたいですよ。だけど、今の時期に日本食を食べていることが周りに知られるとどう思われるか分からないのもあって行くのを控えています」と打ち明けてくれたそうです。
「中国人の多くは普段から日本の文化に慣れ親しんでいて、すでに彼らの生活の一部になっています。本当はもっとみんな日本の食や文化を楽しみたいのに、政治がもたらす空気感によってそれが妨げられるなんて、本当にもったいないことです」
■中国で働くことに難しさは?

日中の冷え込んだ関係が続く中、中国で働くことに難しさはないのでしょうか?
鶴崎さんは「良いものを創る」という価値観が共有できていれば、政府間の対立が仕事に影響することはほとんど無いといいます。むしろ新型コロナ感染拡大以前は、周囲の中国人のクライアントや建築家が「日本から学べることはたくさんある」と何度も日本に足を運び、貪欲に日本の文化やデザインを勉強していたといいます。