「泣けて泣けて仕方ない」 祖国への手紙に記された両親の思いに涙

「日本に帰りたいと思っていた両親の夢を叶えたい」
永住帰国した降籏さんは、2024年8月7日、妹のレイ子さんとともに、両親の故郷である長野県安曇野市を初めて訪問。父方、母方のそれぞれの先祖の墓に手を合わせるとともに、親戚と交流を深めた。

降籏さんのいとこの家には、サハリンにいた降籏さんの両親から送られた数枚の手紙が保管されていた。
降籏さんの母、ようさんが、自身の弟の浩三郎さんから日本の家族の無事の便りを受け取った後の手紙(1957年11月)には、こう記されている。
「もう此の世に無いものと想っておりました。みんな元気でお揃いのよし、こんな嬉しいことはありません。嬉しくて、懐かしくて、3日も泣けて泣けて仕方ありませんでした。子どもまで日本から手紙が来たと言って躍り上がって喜んだものです」
「その喜んだ子どもたちだ」と、指でさされた降籏さんとレイ子さんから、笑みがこぼれた。
文面からは両親が日本に帰る希望を持ち続けていたことがわかる。
「いずれ日本に帰れる日を待っていの一番皆さんとお会いすることを楽しみにしています」
戦争で運命を狂わされ、祖国日本に戻ることが叶わなかった両親。手紙に記された祖国への憧憬の思いを聞いた降籏さんは、目を潤ませた。
「子供のころは手紙の内容に興味がなかったので、今回、両親の思いを知ることができてとても嬉しかったです。両親の代わりに来ることができて良かったです」
取材を終えて
2度の戦争で故郷を奪われ、国籍を3度も変更し、最愛の妻子にも先立たれてしまった降籏さん。数奇な運命に弄ばれても愚痴一つこぼさず、温かい眼差しと周囲への気配りを欠かしたことはない。
「この小さな体のどこに、その強さと優しさが宿っているのだろう」
降籏さんと出会ってからまもなく2年半になるが、私は何度もその人柄に敬意の念を抱いた。
自身の人生については、こう語る。
「2つの戦争がなければ、私の人生は違ったものになったでしょう。私のことは『これが運命』だと受け入れるしかありません。しかし、今も戦争が続いているウクライナの家族のことだけは心配です」

過酷な幼少期を経ながらも、50年以上に渡って自身を育み、温かい家庭を築かせてくれた「第2の故郷」ウクライナへの感謝の念は尽きない。だからこそ、今も続くロシアの攻撃に胸を痛めている。
「家族が無事で生きていることを祈るしかありません。ジトーミルでは未だにミサイルが空を飛び、空襲警報が鳴るたびに避難しなければなりません。今やこの異常な光景が、日常となっています。子どもたちは落ち着いて夜も眠ることもできません。戦争を経験した子どもは私を含め一生忘れることはありません。1日も早く戦争が終わってほしいです」
永住帰国後にステージ3の肺がんが見つかった降籏さんは、現在も放射線と抗がん剤の併用治療を続けている。そんな降籏さんを先に帰国した4人の兄妹や支援者が、そっと寄り添い続けている。
2度の戦争に翻弄されながらも、自身の力で人生を切り拓いてきた降籏さん。戦争が終わり、2つの故郷を自由に行き来できる日がくることを、私は願ってやまない。