「戦争に行きたくて…」14歳で船乗りに

船員たちを追悼する式典で、徴用船に乗っていた大矢秀二さん(94)に会うことができました。

大矢秀二さん
「船員が6万人も死んでいる。同じ思いをしている。生きている間は来ようかなと思って。でも来年は無理かも」

横浜に大矢さんを訪ねます。

新潟の米農家に生まれた大矢さん。9人兄弟の次男坊でした。国民学校・高等科を卒業したのち、船乗りを志し、和歌山の船員養成所に入ります。

綾瀬はるかさん
「大矢さんは14歳の時に船乗りになったと伺いましたが、なぜ船乗りになりたいと思われたのですか」

大矢秀二さん
「戦争に行きたくて。当時は必ず兵隊に行かなければいけないと思い込んでいたんです。小学校終わったら戦争に行きたい。国のためにやろうと」

当時、男子の多くは兵隊さんが憧れでした。でも、誰もがなれるわけではありません。

大矢秀二さん
「なにしろ(身長が)小さいの。143センチしかなかった。151センチ以上ないと(軍は)だめだった。どうやったら戦争へ行けるか、『船乗りがあるよ』と先生が話をした」

船乗りには身長の条件がありませんでした。その上訓練はわずか2か月で終了。戦争末期は船員不足から、短い訓練で皆、海に送り出されたのです。

1944年8月25日、大矢さんは機関士見習いとして乗組員35人と共に出港しました。

綾瀬はるかさん
「戦地に向かう怖さみたいなものはなかったですか」

大矢秀二さん
「何にもないね。兵隊になれないから船乗りになったんだから。やっと自分の希望が叶ったという感じ」

行き先も告げられない出港でした。このあとの運命など知る由もなく…。

乗り込んだのは、全長110メートルの『大明丸』。戦争末期に乏しい材料で急ぎ造られた船でした。

戦地に送る武器や兵士を乗せた大明丸は、18隻の船団を組んでいました。

9月9日、門司を出た一団。スピードは8ノット(約時速15キロ)。6隻の護衛艦とともに各地に寄港しながら進みます。敵・潜水艦を警戒し、陸に近い浅瀬を通りました。

綾瀬はるかさん
「南方への航行中、危険なことに遭遇することはなかったですか」

大矢秀二さん
「旅行気分。飛行機も潜水艦も見えない、潜水艦なんて来ないんだって」

しかし、敵は見ていました。