激痛の原因は…旧日本軍が捨てていった「毒ガス兵器」

日中戦争のさなか、当時の日本軍は中国に毒ガス兵器を持ち込み、実戦で使いました。

1945年8月15日。戦争に負けた日本は中国から撤退しましたが、その際中国全土に毒ガス兵器を捨てていったのです。中国の大地で眠り続けた毒ガス兵器は数十年後、農地やマンションの建設現場などから偶然掘り出され、今に至るまで中国の人々に健康被害をもたらしています。

楊樹茂(よう・じゅもう)さん(60)

チチハル市で暮らす楊樹茂(よう・じゅもう)さん(60)もまた、被害者の一人です。

楊樹茂さん
「庭に敷くための土を購入しました。土に触れたとたん足が赤く膨れあがり、水疱ができました。水疱はどんどん大きくなりました」

2003年8月のことでした。土に触れた右足の痛みはどんどん強くなり、夜になると体全体に激痛が走り、吐き気が止まらなくなりました。次の日病院に行くと「イペリット(毒ガスの一種)中毒」だと診断され、そのまま入院することに。同じ土に触った複数の人が病院に運ばれたといいます。

妻と3人の子どもと暮らしていた楊さん。真っ先に考えたのはこれからの生活のことでした。

楊樹茂さん
「子どもは学校に通っていたし、稼ぎ手は私だけです。どうやって暮らしていけばいいんだろう」

当時、屋台でピーナツやスイカの種などを売る仕事をしていましたが、人々は「毒ガスがうつる」と楊さんを避けるようになり、商売を続けることができなくなってしまいました。

楊樹茂さん
「まるで、今のコロナのように、みんなが私を避けるようになってしまったのです。一緒に風呂に入るのも断られました」

仕事を探しましたが「毒ガスの被害者だ」といわれ、誰も雇ってくれません。収入を失ったことで妻は精神的に不安定になり、家を出て行ってしまいました。教育費が払えず、3人の子どもは学校を続けることができなくなりました。結婚や就職などへの差別を恐れ、子どもたちは今も父親が毒ガスの被害者だということを隠し、チチハル市から遠く離れた場所で暮らしています。

楊樹茂さん
「当時、我が家は裕福ではありませんでしたが、生活に困ってはいませんでした。わずかですが貯金もありました。屋台の仕事は好調だったのですが、まさかこんな打撃を受けるとは思ってもみませんでした」

毒ガスの影響で体調を崩しがちな楊さんに代わり、両親がゴミ拾いの仕事をして生活を支えました。

20年以上たった今も楊さんの足は痛み、赤く腫れあがっています。肌が焼けるような痛みがあり、うまく歩くことができません。痛みが強いときは意識がもうろうとし、時々熱も出ます。しかし病院に行くお金はありません。楊さんの寝室にはたくさんの市販薬が置いてありました。医者にかかることができないため、市販薬でしのいでいるのです。しかしそのお金すら、ままならないといいます。

楊樹茂(よう・じゅもう)さん(60)

楊樹茂さん
「毒ガスは私と家族の人生をめちゃくちゃにしました。この辛さはなんとも表現しようがありません。でも、辛くても生きていくしかないんです」

ゴミ拾いをして生活を支えてくれた両親は亡くなり、現在一人暮らしの楊さん。ガスも通っていない小さな家の台所には、自炊用の白菜と小さな大根が転がっていました。