■「忘れろと言われても忘れない」15歳の少年が毒ガスを作った記憶

広島県三原市に住む96歳の藤本安馬さん。

戦時中、大久野島で毒ガス製造に関わりました。慢性気管支炎に加えて胃がんを患い、胃を切除しましたが、今でも、がんが体を蝕んでいるといいます。

養成工として毒ガスの製造に携わった藤本安馬さん(96)


藤本安馬さん:
「安全が第一ではない。安全が第二だ。生産が第一だ。ちりも積もれば山となる。毎日毎日そういう繰り返しをしていたら、毒ガスの障害を受ける」

藤本さんは貧しい農家で10人兄弟の4男として生まれました。14歳の時「お金をもらいながら勉強できる」と言われて大久野島に渡り、1941年4月1日付けで養成工1年生になりました。弟たちへ仕送りをしながら勉強できると期待に胸を膨らませていたといいます。

島の桟橋についた途端、鼻をつままないと立っていられないほどの刺激臭がしたと言います。教官からは「大久野島は毒ガスを作るところだ」と言われ、島で何の勉強をしているのかは家族にも秘密にし口外しない、という誓約書を書いたそうです。

寄宿舎生活で毒ガスの製造方法を学び、皮膚にただれを起こす糜爛(びらん)性の毒ガス「ルイサイト」を作る“A3工室”に配属されました。工場ではほぼ手作業で化学物質を扱っていたといいます。

教え込まれた毒ガス製造の化学方程式を今でもはっきりと覚えています。

藤本さんのノートに記された毒ガスの化学方程式


藤本安馬さん:
「AsCl₃〈三塩化砒素〉にC₂H₂〈アセチレン〉をぶくぶくぶくぶく11時間ふかしたらルイサイトが出来る」

忘れられない理由。
それは「毒ガスを使って、敵を殺すことは当たり前」と教え込まれた間違った教育を忘れることになるからだと声に力が入ります。

藤本安馬さん:
「軍国主義思想。毒ガスを作って中国人を皆殺しにする。これを当たり前だと思う人間になってしまっていたんだ」

力強く話す藤本さん


「しっかりぶち鍛えられた養成工。化学方程式。毒ガスの方程式を忘れるということは、戦争人間であったということを忘れることになる。忘れろと言われても忘れない。忘れることができない」

■「毒ガスを作っていたという歴史は通り過ぎていく」中国への謝罪の旅


2004年に藤本さんは、中国・河北省を訪れています。日本軍が毒ガスを使ったとされる北たん村(※たんは田に童)への「謝罪の旅」。直接家族を失った人たちに会い、毒ガスを作ったことを告白しました。

藤本安馬さん(北たん村訪問時):
「1941年から3年半にわたって毒ガスを作りました」

直接家族を失った人と握手をする藤本さん(左


藤本さんは大久野島で作られた毒ガスにより亡くなった人がいるという事実を受け止め、その歴史をつないでいかなければ、平和を語ることはできないと話します。

藤本安馬さん:
「『平和とは何ぞや』といわれた時にその答えが出てこないんだ。反省がなければ。大久野島の過去は、毒ガスを作っていたという歴史はね、通り過ぎていくんだ」