瀬戸内海に浮かぶ広島県竹原市の「大久野島」。約5~600匹のうさぎが棲息する“癒やしの島”として知られていて、コロナ禍でも年間約13万人(去年)の観光客が訪れます。しかし、この島はかつて日本軍の“毒ガス製造工場”があり、実態を隠すため「地図から消された」過去があります。そこで何があったのか。広島県出身の20代の記者が、当時を知る家族とともに、戦争の記憶をたどりました。
■「来るのは45年ぶりくらい」当時を知る家族と島を歩く
戦時中、広島県立忠海高等女学校(現・広島県立忠海高等学校)の学生だった岡本須磨子さん(91)は、学徒動員で終戦までの9か月間、大久野島の“工場”で働いていました。岡本さんは、私(筆者)の祖母の姉である“大伯母”。2022年7月末、私は大伯母と一緒にこの島を訪れました。
岡本須磨子さん(大伯母):
「岩が欠けたような感じがあるじゃろ?ああいうような感じ。こんなに(木々は)青くなかった。やっぱし毒の臭いかな。それで育たんかったんかもわからんね」

私:
「大久野島に来るのは何年ぶり?」
岡本須磨子さん(大伯母):
「来るのは45年ぶりくらい」
大伯母は戦後、島にほとんど来ることができませんでした。また、戦時中に島で何を体験したのかも、積極的には話をしてきませんでした。実の妹である祖母も、私の母も、大伯母が戦時中、島で何をしていたのか聞いたことがありませんでした。
■「地図から消された島」の理由

岡本須磨子さん(大伯母):
「ここは極端に言ったら内緒のあれじゃけえ。国が毒ガスを作りよったけえね」
大久野島には1929年から終戦までの間、毒ガスの製造工場がありました。国際的に禁止されていた毒ガス製造や使用の実態を隠すため、日本陸軍は島の存在を地図から消したのです。
現在、島には「長浦毒ガス貯蔵庫跡」をはじめ、毒ガス工場の電力を供給していた「発電場跡」や毒ガス缶置き場があった「北部砲台跡」など、至るところに戦争の記憶を伝える遺跡が残されています。島に到着した大伯母も、遺跡が見えるたび、不自由な足を気にするそぶりもみせず、興味深々に近寄り、過去の記憶をたどっているようでした。
「毒ガス貯蔵庫跡」は、崩落の危険から立ち入り禁止になっていますが、「入れんのんかね。中が見たい」としきりに覗き込んでいました。
女学生として島で働いていた当時は、毒ガスを貯蔵していた施設をみることはできず、自分の職場と船着き場を行き来するだけだったため、自分の目で見て確かめたかったのだそうです。
■大伯母の記憶“強烈なにおい”と後遺症

大伯母のように島に集められた女学生たちは、毒ガスのことは知らされず、毒ガスの入ったドラム缶を運んだり、毒ガスを入れて飛ばしていたとされる風船爆弾の糊付け作業などをしていました。
岡本須磨子さん(大伯母):
「とにかく目的のところまで運ぶいうだけを考えて、『こうしよう ああしよう』ということは考えたことはなかった。風船爆弾は、紙をね。みんな1列に並んで、糊をちゃっちゃっちゃっちゃってつけて貼っていたというのをしようたよ」
大伯母の島の記憶は"強烈なにおい"でした。言葉では言い表せないと何度も繰り返し、何とか表現しようと記憶をたどってくれました。
岡本さん(大伯母):
「においはもうとにかくどこからでも漏れるからね。島にあがったらとたんに“におい”がしようた。シンナーいうのを知っとる?あれのひどいぶん。何倍もあるぐらいのね」
知らず知らずのうちに毒ガスに触れ体に異変をきたした人も多くいたといいます。
岡本須磨子さん(大伯母):
「症状が重いと、湿疹のようなものが出た人とかがおってんじゃ」

大伯母も戦後、せきが長く続いたり、息切れしたりと後遺症があり長年病院に通っていました。
私:
「その後の後遺症みたいなのは、喉?」
岡本須磨子さん(大伯母):
「気管がね。あの臭いでね、病気になるなんてことは思いもせんかった」