子どもたちが戦争に行かなくてもいいように、戦争をどう伝えていくべきか?今回は77年前の小学1年生が今の子どもたちに伝えたい戦争のお話です。

<岩下佳子さん(83)>
「今日は長崎に原爆が落とされた日なんだよね。でも、沼津市にも空襲があって、アメリカと戦争をしちゃってね。そのときにおばさんは6歳でした。小学校1年生でした」

8月9日、静岡県沼津市内の小学生が戦争体験者の話に耳を傾けました。語り部は岩下佳子さん(83)です。

<岩下佳子さん>
Q.当時、ご自宅があったのは?
「ここですね。公園なんかなかったですけどね。そこが私の実家です」
Q.当時と結構変わった?
「変わりましたね。77年も経ってますからね」

今から77年前、岩下さんも小学生でした。この場所で家族3世代仲良く暮らしていた岩下さんに、今の小学生にとっては想像もできない出来事が起こりました。

沼津大空襲です。1945年7月17日の深夜、アメリカ軍の爆撃機130機が沼津の街を襲いました。沼津市は軍需工場や研究所などがあった事から標的になったといわれていますが、被害が大きかったのは市街地でした。

<岩下佳子さん>
「外に出たら、この辺みんな燃えてましたから。真っ赤でしたからね。我が家ももちろん、燃えちゃいましたけどね。これはしょうがないから川へ行こうって」

落とされた焼夷弾の数は9000発以上。9523戸が焼失し、274人が亡くなったといわれています。

<岩下佳子さん>
Q.どっちに逃げたんですか?
「左に曲がって、今、信号があるでしょ。信号なんて昔はなかった。あそこのところを向こうに」

焼夷弾から逃れようと目指したのは、自宅から20分ほど歩いた場所にある河原です。逃げている間も焼夷弾が雨のように降り注ぎ、周囲は火の海のようでした。

<岩下佳子さん>
「何百人の人が一生懸命水を求めて逃げた。子どもがランドセルか何かをを背負っていたんでしょうね。カバンに焼夷弾のかけらが落ちた。逃げる途中も、爆弾が落ちてケガをした人もいた」

濡らした布団や防空頭巾をかぶって、みんなで水を求めて走りました。ようやく河原にたどり着いた時でした。

<岩下佳子さん>
「川に入ろうかなと思ったら、この辺に石ころがあって、その場で転んで右の足の小指が刺さっちゃったんです、焼夷弾の破片のところに。そこで、動けなくなって『痛い、痛い、痛い』って」

川に入ろうとしたとき、焼夷弾の破片が岩下さんの右足の小指に刺さり、抜けなくなりました。すぐに手ぬぐいで縛って止血しましたが、痛くて歩くことができず富士の病院に運ばれました。

<岩下佳子さん>
「私の番になったときに先生が『もう時間が経っているし、普通の火傷とは違うからこれはももから切断しなきゃダメ』だって。お母さんとおばあちゃんが泣いて頼み込んで『とにかく膝は残してください』と言って結局膝の下20cmから切断したんです。どうか私に…私の足を本当に返してください。返して。と言いたいですね」

戦争を経験したことのない小学生が自分と同じくらいの年齢で、戦争のせいで足を失った岩下さんの話を聞きます。

<岩下佳子さん>
「戦争なんて人を殺したり、殺されたり、殺し合いだもんね。絶対、戦争なんてしてはいけない」

<岩下さんの話を聞いた小学生>
「インターネットではわからないことが、本当に体験した人の話を聞いたら、詳しくわかりました」
「何もしていない人たちが、大勢傷ついて、とても悲しいし悔しいなって気持ちがします」

<岩下佳子さん>
「日本は戦争が終わったと言ってるけど、私自身には戦争はまだ終わっていません。気持ちは。一生、戦争は終わっていないんじゃないかな」