いまも多くの市民が犠牲となり続けているパレスチナ自治区ガザ。
実はこのガザでは東日本大震災以降、被災地に想いを寄せた"凧揚げ"が行われてきた。

震災から13年、ガザの子どもたちから勇気をもらった釜石の中学生たちはいま、どのような思いでガザの現状を見ているのか。

ホラン千秋が、以前釜石に来たこともあるガザの女性とのオンライン交流に密着した。

(TBS/JNN「Nスタ つなぐ、つながるSP〜いのち〜」大﨑雅基)

ガザと釜石 9000キロを超えた交流

岩手県・釜石市からおよそ9000キロ、パレスチナ自治区ガザ。文化も言語も全く異なるこの2つの地域では、長年交流が続いている。
きっかけは2011年の東日本大震災。日本の震災に胸を痛めたガザの子どもたちが翌年、犠牲者の追悼と復興への想いをのせた凧を揚げた。

ガザは当時から、周囲を壁やフェンスで囲まれた「天井のない監獄」と呼ばれ、空爆も度々行われていた。そんな中でも被災地を気にかけてくれた彼らの想いに応えるため、2015年には釜石でもお返しの凧揚げが行なわれた。
その時、ガザからは3人の中学生が招待され、地元の子どもたちと交流した。

来日した中学生のひとり、ガイダさんは津波の映像を見て涙した。父親を病気で亡くしたばかりだったのだ。封鎖されたガザで、十分な医療物資が入ってこなかったと言う。震災と戦災、形は違えど大切な人や故郷が奪われる悲しみは変わらない。

そして今、ガザは去年10月から始まった大規模な戦闘で、これまでにないほど深刻な状況にある。「今こそガザのために出来ることを」。動き出した釜石出身の2人の女性がいる。